読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ファンタジーってなんなんだろうか

最初に言っておくけど僕は文学のお勉強はしたことがないので、これから書く「ファンタジーってこういうものでしょ!」というのは僕の理想であって、学術的な定義でも偉い人が言ったわけでもないのでこの記事は別に誰も読まなくてもいいです。

 

ファンタスティック・ビーストを見て、「ファンタジーは死んだんだな」と思った話。

 

色々ネタバレになるので詳細は省くけれど、ファンタビは前半はめちゃくちゃドファンタジーだった。後半はファンタジーじゃないなあと思ったけど、面白かった。ファンタビが面白くなかったわけじゃない。ファンタジーの時代が終わったんだと思って寂しくなっただけだ。

 

という気持ちをなかなか他人に理解されないような気がしたので、ファンタジーってなんだろうっていうのを書いておきたくなった。

ファンタジーって色々あると思うけど、ゲームとかラノベとかエロ漫画みたいなアレは全く別ジャンルだから忘れてほしい…。ここで話すファンタジーは、海外児童文学のアレだ。

 

僕が思う、ファンタジーとして完成されすぎている作品といえば、果てしない物語、指輪物語ナルニア国物語とかあのへんになる。もう「古典」と言われてしまうものだ。わりかし最近のでいうと、イーザウのネシャンサーガとか、忘れられた記憶の博物館とか、レイチェルシリーズとか、バーティミアスとかそのへんで、

日本の作品でいうと、守り人シリーズとか、シェーラひめのぼうけんとか、ブレイブストーリーとか、あのへん。龍の住む家も良かった。あれも日本の作品だったかな。

 

ファンタジーにはふたつのパターンがあると思う。

元々「我々の世界」にいた主人公が異世界に迷い込むタイプ(最近ラノベ界隈で流行りらしい)と、

完全に異世界だけで世界が完結してるタイプ。

どっちも数としては半々かというとそうではなく、ファンタジー作品には後者の方が圧倒的に多い。

 

僕が「ファンタジーってこういうものでないとだめだ」と思っている基準のひとつに、「我々の世界が介入しない」というのがある。

「我々の世界」とは違う世界を描いているからこそのファンタジーであり、「我々の世界」がチラつくことはファンタジー作品において邪魔すぎる。異世界に迷い込む型の主人公は異世界への適応力が高くないといけないし、「我々の世界」と行き来ができるなんて言われるともうよっぽど上手くない限りは萎えるしかない。だから異世界に迷い込む型のファンタジーは難しいんであって、簡単にわかりやすいファンタジーらしいファンタジーを作ろうと思ったら、異世界だけで完結してる型が書きやすいんだと思う。

 

その点でいうと、「主人公がファンタジー世界に迷い込み、また「我々の世界」に帰ってくる作品」代表の、果てしない物語やナルニア国物語は本当に優秀だと思う。

主人公はたいてい、「我々の世界」で悩みを持っていたり、不満を持っていたり、成長する余地があったりする。それでそれをファンタジー世界に持っていくが、「我々の世界」とは直接的には関係しないところで主人公は成長を遂げ、ファンタジー世界を救う英雄になるんだけども、またファンタジー世界から「我々の世界」に帰ったときには、主人公は「異世界の英雄」としてではなく、「我々の世界」基準での一般的な子どもとして、大人から見れば小さな成長をあらわにしているのである。

これがファンタジー作品には大切で、「我々の世界」と「ファンタジー世界」には、どうしても隔たりがなければならない。主人公は自分が元いた世界と異世界とを行ったり来たりできたとしても、ふたつの世界をつなぐような人間にはなれない(世界をつなぐって何?神様か?そういうことができる最強すぎる主人公は萎える)。「我々の世界」と「ファンタジー世界」は行き来できうる関係だとしても、お互いが干渉できる関係であってはいけない。そんなことができてしまったらもはや、「ファンタジー」ではないのだ。わかってほしい。読者の我々からしてみれば、行けそうでもどう頑張っても行けない憧れの世界でなければならないんだ。わかってほしい。たとえ、「本の中における我々の世界」だろうがなんだろうが我々の世界は我々の世界であり、いかなる場合においても「我々の世界」はファンタジー世界と交わってはいけないんだ。

 

だから、ハリーポッターシリーズは、僕個人としては優秀なファンタジー作品と思ってるんだけど設定自体がかなりギリギリのラインを通っていた。

人間世界にまぎれて暮らす魔法使い。人間世界はもちろん「我々の世界」だ。交わってしまってる。だけど、あの作品において非魔法族には魔法の存在が隠されている。一部知っているひとはいるが、そのひとたちもほかの非魔法族に内緒にしてるし、その他の人にバレたら忘却される。そういう約束事のうえで、ファンタジー世界と「我々の世界」がかろうじて線引きされるという、ギリギリで綿密な「設定」がとても優秀だった。この作品における「ファンタジー世界」は、「我々の世界」の文字通りすぐ隣にあるうえに、しっかりとした隔たりもある。この作品が発表されたことで、「僕もいつかホグワーツに入学(編入)できるかも」と胸を躍らせた子どもが全世界にたくさん湧いて出てきただろう。でもできない、期待してるけどちょっとわかってる。そういう憧れのままというのが心地よかったよな。な?そういうのがファンタジー作品のお約束であってほしかった。

 

「魔法が使えれば」「魔物がいれば」、イコールファンタジーになるというわけでは決してない。いやカテゴリー的にはファンタジーかもしれないけど、生粋なファンタジーではない。ファンタジーの亜種と言ってもいいくらいだ。

ふつうに魔法が使えるひともいると認知されていてふつうに魔物もいる「我々の世界」が描かれているとすれば、それはもう、その世界は「我々の世界」ではない。例えばイギリスという具体的地名が出ていたとしても、読者は「それは自分が知っているイギリスとは違う」と無自覚的にでも認識できてしまうし、そう思われた時点で、この作品の世界は、「ファンタジー世界と我々の世界をきれいに分断できていないが、完璧なファンタジー世界を描いているわけでもない」という中途半端な世界になってしまう。僕としてはまあ萎える。優秀なファンタジー作品とは思えない。何が描きたいんだ?って思う。だから「バケモノの子」はダメだったんだよ(突然の批判)

また例えば今月末に公開される予定の、「ドクター・ストレンジ」。あれは魔法で悪者と戦うが、ファンタジーか?と問われれば、大多数が「ヒーロー映画」「アクション映画」と答えると思う。何故なら描いている世界と舞台は「我々の世界」でしかないからであり、作品はファンタジー世界を特に意識していないからだ。だからあれは自他ともに「ファンタジーではない」と言い切れる作品だと思う。「マイティ・ソー」あたりなら、ファンタジーに分類したがるひともいるかもね。

 

アメコミの話は置いといて

昨今はゴリゴリのファンタジーというのがどうやら売れないらしい。「我々の世界」に関係ある話じゃないと面白いと思ってもらえない風潮がある。

だからファンタビは、「魔法生物のおはなし」じゃなくて「ノーマジ対魔法使いの中で発生した、ヒトと社会の闇のおはなし」になってしまったし、戦いの場はファンタジー世界ではなくまちなかや地下鉄になってしまったんだと思う。ロードオブザリングとかナルニア国物語みたいに、不思議な生き物たちがぞろぞろと出てきて、不思議な生き物たちがメインになる話ではない。するともうこれはファンタジーなのか?いや違うだろ、としか言いようがない。ファンタビは、魔法こそは出てくるが「我々の世界」の差別と抑圧の構造のおはなしだ…。魔法はアクセントであり、魔法生物はオマケだ。

 

しかしそれはファンタビが作品として出来損ないっていうわけじゃない…。面白かった。だけどもうこれは「僕が思ってたファンタジー」ではないし、今後こういう「ファンタジーっぽい」作品が出てきても、ファンタジーではなく結局「っぽい」ものでしかないんだろうなと思う。ふたたび、王道ファンタジーが爆発的に売れるようになるまでは、たぶんずっとそうだ。それを寂しいと思うだけの話でした。

 

余談だけど、「君の名は。」はファンタジーらしいよ。ウケるすぎる。どっちかというとSFに近いと思うんだけど(どっちかというと)、ファンタジーではないだろ……。でも昨今のラノベ界隈の様子を見てたら、まあ、「ファンタジー」と呼んでしまうのかなあと思わないでもない…。