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僕と宗教のはなし

幼少のころから、他人にあまり詳細を話したくない自分の事情というものがいくつかある。バイ・セクシャルであることもそうだし、母方の祖父の死に際とか(めちゃくちゃ色々あった。話せる機会があればいいと思う)。

今日はTwitterで子どもと宗教のお話を見たので、僕も宗教の話がしたい。

 

そもそも日本では宗教の話はなんだかタブーだ。あまり他の国ではそうじゃないんじゃないかと思う。例えばカトリックなんかは昔は異教への差別が酷かったけど、今の時代、キリスト教圏でイスラム教や仏教の話をしたって嫌な顔をするひとはあまりいないだろう。過激派宗教っていうのもまあありはするけど。

 

日本で宗教の話がタブーである理由はよくわからない。「新興宗教」に対する警戒心が強すぎて、その他の宗教や三大宗教にも警戒心を持っているような気配がある。僕は無宗教じゃないので、無宗教のひとの気持ちはよくわからない。

 

僕はプロテスタントキリスト教徒なんですけど、割と真剣に神様を信じているし、悪い事をしたと思ったら神様に懺悔するくせがついている。自身の平穏を祈る時もある。だけど教会には行かないし(昔は行ってた)、聖書の勉強もしてないので全く詳しくない。神様の存在だけを信じて祈る時は本気で祈っているので、そこそこ熱心なキリスト教徒だと自分では思っている。

なんかの映画かドラマかテレビ番組かで、キリスト教徒が日本の無宗教者に、「どの宗教も信じてない??じゃあきみは何か起こったときに何を心の拠り所にしてるんだ?」と聞いた場面があった。僕も無宗教者に対しては割とそんな気持ちでいる。拠り所になる神様がいないことをバカにしているんじゃなくて単純な疑問だ。そして無宗教者は、心の拠り所に神様を置くことを不思議に思ってるんだろうなと感じている。その感じはわからなくもないけど、ほんとにそれで大丈夫なの?神様信じてないでいるの怖くない??ってどうしても思ってしまう。それが信条の違いというものだ。

 

だけど僕がそういうふうに神様を思っていることは、あまり他人には話さない。昨今の日本ではセクシャルマイノリティの議論が高まっているので、現時点では自分がバイセクシャルであることを話すよりも、自分がクリスチャンであるという話をするほうがハードルが高いような気がしてくるほどだ。

バイセクシャルであることを話すと、「そういう人もいるよね」と許容されそうな気はする。でもクリスチャンであると言うと、「なんで宗教やろうと思ったの?」と言われそうな気がする。前者は選びたくて選んだものじゃなくて、後者は選びたくて選んだものだからだろうか。

「なんで宗教やろうと思ったの?なんで宗教入ったの?」と聞かれても困る。子どもの頃からそうだったからだとしか言えない。そしたらたぶん、強制されたのか可哀想という目で見られそうだ…とごちゃごちゃ考えて、結局黙ってしまう。

 

親も祖母もキリスト教徒だから自然に教会に通ったが、宗教を強制されていたと感じたことは一度もない。厳しい家庭なら、宗教を強制されてると感じて嫌になる子どももいるだろう。でも僕はそうじゃなかったし、それは宗教の問題ではなく家庭の問題であると思う。

家族で新興宗教に入っている友人がいて、ネットではその新興宗教は勧誘ノルマが厳しいとかルールが厳しくて信者の子どもが可哀想とかよく聞くが、その友人は自身の宗教に厳しさを感じたことはないそうで、満足していると言っていた。だけどその友人も、僕と同様に自分が所属している宗教の話を積極的にはしなかった。

 

僕や友人が宗教の話をしないのは、宗教に恥ずかしさを感じているからではない。宗教に所属していることを嫌なことだと思っているからでもない。なんとなくまわりの雰囲気を見て、「話してはいけない」と思ってしまう。自己防衛のようなものだ。

宗教のルールは宗教それぞれ、家庭それぞれ、同じ宗教に属していても信じる度合いやルールを守る度合いは人それぞれ。僕達はそれを理解しているけれど、無宗教者の人たちにとっては、全部同じに見えるらしい。何が悪くてそう思わせているのかはよくわからないんだけど、親がやってるから子どもの頃から宗教に入っている=可哀想になってしまうのだ。すべての宗教、すべての家庭、すべての信者をひとくくりにして。

強制されてるから可哀想な思いをしている宗教家の子どもはもちろんいる。少なくもないだろうけど、だからといって、全員に当てはめないでほしいとも思っている…。

 

僕がいま教会に行ってないのは、教会が嫌で行きたくなくなったからじゃない。幼少期のトラウマによるところが大きい。そのトラウマは教会から与えられたものではない。

幼少期は、毎週日曜日に教会に通っていた。僕は教会が好きだった。礼拝をするのも聖歌を歌うのも好きだった(今でもたまに聖歌を鼻歌で歌うくらいには好き)。日曜学校という、信者の子どもたちが集まって子ども向けの聖書の物語を読んだり、塗り絵をしたり、劇をしたりする時間があったのだけどそれも好きだった。礼拝のあとにみんなでおかずを持ち寄って机を囲んで大勢で昼食を食べるのも好きだった。牧師さんも好きだった。クリスマスミサも大好きだった。

でも行かなくなったのは、学校の友だちが原因だった。

友だちは嫌いじゃないし遊びたいけど、平日や土曜日にも遊べる。僕は日曜日は教会に行きたかった。それで、日曜日の誘いは断っていた。

たしか小3くらいの頃までは、「教会に行くから日曜日は遊べない」とはっきり言っていた。友だちもそれで納得していたし、教会って何するの?って聞いてきたので、嬉嬉として話した。

高学年くらいになると、教会に行くから日曜日は遊べない、があまり通用しなくなった。みんながみんなそうじゃなかったけど、何人かの友だちは不満そうな顔をするようになった。宗教について、少し知識がついてくる年ごろだった。「日曜日に遊びに行けないなんて可哀想」と言われるようになった。「教会行かないといけないの大変だね」とも言われるようになった。

僕のところの宗派や家庭は、あまり厳しくなく、日曜日に学校行事があったり、友人と土日をかけてお泊まりに行きたいという日は、普通に教会を休んでよかった。「教会を休む」という概念すらあまり無かった。休むとか行かなきゃとかそういうものじゃなくて、行くかどうかは完全に自由だった。そうじゃない所もあるだろうけど今はその話はしない。少なくとも僕は自由だったのに、可哀想だと言われた。

 

可哀想という言葉が逆に僕を縛り、僕はこのころから、ごちゃごちゃ考えるようになっていた。もし、「教会に行くのは強制じゃなくて、行きたいから行ってる」と友だちに言ったら、「日曜日はお前らと遊ぶよりも教会に行くほうが楽しい」と言ってるようなもんじゃないか?そう思われても仕方ないんじゃないか?

友だちと遊ぶのが楽しくないわけじゃないし、比べてどちらが楽しいとか大事かとかじゃなくて、僕は単純に、教会は日曜日にしかやってないから日曜日は教会に行きたいって思ってるだけなのに。

 

そう思っている間に、僕は全く別の件でいじめを受け、「こいつ教会とか行ってんだろ」みたいなことも言われた。いじめられるようになった原因とは関係なかったけど、からかいの種にはなってしまった。その頃にはみんなにも怪しいほうの新興宗教の知識がついており、僕が宗教をやっていることを、いじめグループには「あやしい」「気持ち悪い」と言われるようになった。そう言われるとそうなんじゃないかって気持ちにもなってきて、僕の信仰心は簡単にゆらいだ。

いじめられてるあいだも、別のクラスには一緒に遊ぶ友だちがいて、その友人たちに「日曜日は教会に行くから遊べない」と言うのがますます申し訳なくなっていた。「教会に行くから」ではなく、別の理由をつけて(家族で遠出するからとか、おじいちゃん家に行くからとか)断るようにした。そういう仮病みたいなやつでは毎回断りきれないので、教会のほうを休んで友だちと遊ぶことも多くなった。

親や祖母や教会のひとたちは、「遊びたい盛りだから教会に行かなくなっても仕方ないね」と言っていた。そうじゃない、そうじゃないんだよと思っていたけど、教会に行くことを可哀想と言われたりバカにされるからだとは、教会に通う大人たちには言えなかった。

 

そうこうしながら中学校まではなるべく教会に通っていたけれど、高校にあがって、初めて男性の恋人ができて、日曜日の遊びの誘いを断っていたのも含めて彼とはいろんなゴタゴタがあり、ストーカーやら暴行やらがあって酷いトラウマになってからは、もう無理して日曜日を潰さなくていいんじゃないかと思うようになってしまって、完全に教会には行かなくなった。

自身の宗教の話を他人にすることも無くなっていたし、「話したら絶対ややこしいことになる」ともわかっていた。

 

大人になっても話せない。職場で、堂々と宗教をやっていると明言していた人がいたのだけど、彼はカフェインは勧められても絶対とらないし、日曜日の休日出勤は絶対断るし、宗教でこういう行事があった、こういう信者と出会ったと普通に話していた。それを白い目で見る人もいるわけで、「ああいうふうに、宗教やってる人って…」と影で言われているのを僕も聞かされていた。僕は合わせて笑うしかなかった。

彼は、楽しく宗教をやってるのを楽しいよって話してるだけなのに、ほかの人は勧誘されるんじゃないかと勝手に身構えたりするのだった。しつこい勧誘された経験があるからそうなってしまうんだろう。わかるけど…。しつこい勧誘なんてする宗派が悪いとも思うけど…。

 

そんなこんなで、僕はキリスト教徒ですって言いづらくなっていく。祈りのポーズもとらず、心の中で祈るだけになってしまった。僕はいまのスタイルでも満足しているけど、正直言うと、もし自分の子どもが生まれたら、できたらキリスト教徒に入ってほしいと思っている。

それを配偶者がどう思うのか。親戚がどう思うのか。子どもをキリスト教に入れたことが友だちや会社のひとにバレてしまったらどう思われるのか。そもそも子どもがある程度大きくなった時に、僕と同じ悲しさを感じてしまわないか。そういうことを色々考える。

宗教やってたら、宗教自体のせいじゃないのに悲しい思いをしてしまう。教会か友だちかなんて子どもに選ばせたくないし、そうじゃなくても、もっと大きくなったら宗教差別があることを知って、宗教について沈黙しないといけなくなるのだ。けっこうつらい。

そんなんなら、入信させないほうがいいんじゃないか…とも思うけど、はじめの方でも書いたけど、僕は心の中に神様という拠り所がないということに「大丈夫なの?」と思ってしまうし、怖いとも思う。なんだかんだで無宗教のひともそれでうまくやってんだから大丈夫なんだろうけど、僕からしてみると、そこに神様が置かれないことは心に穴があくようなもんじゃないかというふうに思えてしまう。心に神様がいない状態というものがどういうものなのか、キリスト教徒の僕にはわからないから、自分の子をキリスト教に入れないと納得して決断するまでには、様々な不安がついてきそうだ。

まだ子どももいないのに、Twitterで宗教家族と子どもなんてテーマのマンガを見たので、自分の子ども時代を思い出しながらごちゃごちゃと考えた。

厳しく子どもに宗教を強制する家庭と、普通の宗教とをごっちゃにしない社会にいられたら、僕の宗教生活はしあわせだったんじゃないかと思う。