暇だから本の話をする

僕は小説があまり好きじゃない。

それにはいろいろ複雑な意味が込められているけど、話せば長くなるので、他人に「好きな本は?」と聞かれた時は、事前情報としてひと言で「小説はあまり好きじゃなくて、」と冒頭に添える。

前職も今の仕事も、大学の専攻も学生時代のアルバイトも本に関わるものだったので、どこかしこで必ず、「好きな本は?」という質問を受けるのだけど、このとき質問者が期待している「本」というのは、小説を指している場合がおおよそ99.99%くらいである。だから僕はこの質問を受けたら必ず最初に「小説は好きじゃないんですが、」と丁寧に前置きしてから、小説ではない本を答える。

 

もっと言えば、このとき質問者が期待している「本=小説」というのは、現代小説家の小説であることが主だから、現代小説が苦手な僕は「小説は好きじゃない」と言っている。質問者のいう「本」や「小説」の定義があまりにも狭すぎるんだ。

 

読書家でも、本の好き嫌いというものはあると思う。映画ファンでも嫌いなジャンルの映画はあるだろうし、漫画好きでも「この手のマンガは読まない」というものがあると思う。映画やマンガはジャンルが広大だからそういう趣味の偏りがあるということは理解されていて、たいてい、「好きな映画」「好きなマンガ」の話をする時に「好きなジャンル」という大枠で語っても充分に許される雰囲気がある。

だけど読書家界隈における「好きなジャンル」というのはあまりにも狭くって、本の話をしているはずなのに、「小説の中」という限定された枠からの「好きなジャンル」「好きなタイトル」を話すことしか許されていない感じがする。

 

僕は昭和後期以降の小説家の書く小説があまり好きじゃない。どう嫌いなのかというのはいろいろ言えるけど、単純にいえばまあただの好みである。ライトノベルは大論外で全く好みじゃない。どれも読まないわけじゃなくて、一応は読む(ライトノベルの中にはそもそも読もうとも思わないものも多いから、ほとんど読んでないけど)

現代小説も一応は読むので、そういう話ができないわけじゃないけれど、苦手だし面白くもないし文句しか出ないのでできれば現代小説の話はしたくない。

 

小説は小説でも、明治・大正・昭和初期の文学は好きだから、そういう話をしてもいいんならするけど、「好きな本は?」と聞かれた時に、「宮沢賢治夏目漱石が好きです」と答えたら苦笑いしながら「真面目な本が好きなんだね」と言われるのは本当につらい。

近代文学が好きだと言った時に「真面目」と評価されるのは好きじゃない。じゃあ現代小説は「真面目」ではないのか?失礼だよな???

 

もっと言えば、近代文学でも、漱石や康成よりも、ぼくは、賢治や中也や朔太郎の詩のほうが好きなわけだ。完全に好みの問題でそうなんだけど、小説ではないので話題に出しにくい。詩はさらに「真面目」というイメージがついてしまう。質問してきたひとも、僕に「近代作家の詩集が好きです」と言われたら、会話を続けられなくて困るらしい。そう言った後でもまともに会話が続いたのは、文学系の学科であった大学時代だけだ。

 

また僕の場合、実は、近代詩の次に近代小説が好きかといえばそうでもない。近代詩の次に好きなのは日本古典文学だ。「詩以外ならなんの本が好き?」とめげずに質問者が会話を続けてくれた時に、「古典文学が好きです」と答えたらまた質問者は困ってしまって、「真面目だね」と言うのだ。

別に僕も困らせてやろうとか、真面目・秀才アピールをしてやろうとか、ひととは違ったものが好きですアピールだとか、そういうつもりで言ってるんじゃないんだよ。事実として好みの話をしているんだよ…わかって…と悲しい気持ちになって心が死ぬ。

 

順番的にいえば、近代詩→古典文学の次に好きなのは、理科系の本だ。図書館でいうと、4類の棚に入ってる本が好きだ。宇宙の本とか鉱物の本とか、動物の本とか虫の本とかそういった類いの。

この手の本を挙げて、ようやく、本の話題における「会話」みたいなものがかろうじて成立する。

「へ~、図鑑とかが好きなんだね!俺も図書館の図鑑見るの好きだったな~。文字が少ないから(笑)」とかそういう、返事らしい返事がかえってくるし、この手の本は意外と「真面目だね」と言われないし、苦笑いもされないし、相手もちんぷんかんぷんな世界ではないらしい。「そういうひともいるね」とようやく認めてもらえる。

でもそういう風にうまく会話が成立しても、「図書館で働いてたのに/本屋で働いてたのに/本を売る仕事がしたいのに、好きな本が小説じゃないって珍しいね」と言われてしまうので、いちいちそう言われるのがイライラするので、最近はもっぱら、「好きな本は?」と聞かれたら前もって「小説は好きじゃないんですが、」と言うのである。

 

「小説は好きじゃないんですが、図鑑系の本は好きでよく読みます」が僕の最適解だ。100%正確な回答ではないけど。「本の話題」における「本」の定義がいかに狭いかがよくわかるだろ…泣きたい…

 

しかしこれで納得しないのが、中学生の「図書館の常連さん」と、頭がカタいタイプの大人の読書家だったりする。要するに、「小説」だけが好きな熱心な読書家タイプ。

大人はあんまり声に出して批判はしないが、中学生のカギ括弧付きの「読書家」は、僕のこの回答をめちゃくちゃ馬鹿にする。彼らは、「本」というものは、文字がたくさん書かれていれば書かれているほどありがたいものだと思っているので、文字が少ない詩や図鑑や絵本が好きではない。そして、そういったものを好んで読むひとのことを「活字が読めない怠け者」だと思っていて、それを態度に出したり言葉にしたりする。

 

僕が図鑑が好きだと言ったら、当時働いていた中学校内で読書冊数が1位だった女の子に、「なんでそんなつまらない本を読むの?」と聞かれた。相手は中学生だから、もちろん腹は立たないし、自分が最善だと信じている世界を愛するあまりの無邪気な質問だと可愛くも思うが、当時は僕も「図書館の先生」だったので、そういう偏った考え方はやめたほうがいいと教えなければならなかった。

「〇〇さんは、4類の本を読んだことがあるから、つまらないと言えるんだよね?」と聞くと、「読んだことない」と言う。まあ知ってた。あの棚のしか読んだことがないと、9類の棚を指す。文学・小説のコーナーだ。

僕は当時、よく本を借りに来る子たちの本の好みを把握していたので、その子がよく読む本のことも知っていた。その子は今どきの中学生にしては珍しく海外ファンタジーが好きだった。

海外ファンタジーには、ヨーロッパ神話がモチーフになっているものが多いので、1類(宗教・神話・哲学等のグループ)の「神様図鑑」みたいな本や、4類(自然科学のグループ)の星座の由来本等が勧めやすい。実際、それがわかってないと理解が苦しくなる海外児童文学は死ぬほどある。外国の児童は当たり前のようにヨーロッパ神話を知ってるから小説内に説明がないんだ。だからその子に1類や4類の中の神話系の本を勧めたら、一時期ハマってくれた。それでもその棚の別の本を読もうとしなかったのは僕の力不足ではある。

 

厄介なのは、日本の現代小説(児童書ではなく、大人も読むようなもの)が好きな生徒だった。紐付けして他のジャンルの本を勧めにくい。

昨今の日本の現代小説は、恋愛系か推理系、それから「現代日本人が抱えている内面的な葛藤」を描いたものが流行る。小説において、「ひとが抱えている内面的な葛藤」を描くのは文豪が闊歩していた大昔からそうなんだけど、なんか言葉にしにくいけどその時代と今とではその葛藤の内容が違うというのもあるがそれを描くための葛藤へのアプローチの仕方も違う。カタルシスが下手くそなんだよな……鬱屈した感情を鬱屈した感情のままに最後まで鬱屈としたままで終わるから物語内に展開がないよな…と思ってるんだけどまあそれは置いといて、

最も流行ってるのは恋愛系と推理系なわけです。推理系でもガチ系の推理ものはあまり流行らない。探偵と助手は男女で、ちょっとぶっ飛んだキャラクターで、恋愛の雰囲気を醸し出していたほうが流行りやすい。そういう本ばっかりが好きで、そういう本以外には読みません!というひとには、ほかのジャンルの本を勧めにくいし、いや別に無理して好きになる必要はないんだけど、世の中にある「本」というものは全てそういうものだと思い込んでしまっていると、僕みたいな人間と本の話題で会話をする時にお互い困るわけです。でもそういうひとはかなり頭がかたいので、僕のほうが話を合わせたりします。そうなってしまうと、まあ、僕にとって「本の話題」ってつまらないんですよね。

 

たくさん寄り道したけどつまり何が言いたかったかというと、日本人における「本」の定義があまりにも狭すぎるせいで、かなりの気を遣わないといけないから僕は本の話題が全然好きじゃないし、本の話題好きじゃないからやめようっていう態度をとると、「このひと本に関する仕事しかしたことないくせに本が好きじゃないんだな、変なひとだな」と思われてしまって腹立たしいという話です。

 

実際、僕みたいに、「現代小説が好みじゃない」という子どもたちはたくさんいて、でもその子たち自身「本っていうものは現代小説しかない(からつまらない)」と勘違いしているわけで、そういう子たちは本当は、スポーツの本とか、戦国武将の読みものとか、図鑑とか、百科事典とか、お金や物流の話とか、車の本とか、旅行本とか、ペットや植物の育てかたの本とか、料理のレシピ本とか、外国の綺麗な風景が載っている写真集とか、イラストの描き方の本とか、人体の不思議の本とか、宇宙の謎の本とか、なぞなぞの本とか、絵本とか、そういった挙げればキリがないような「小説以外」の本ならいくらでも読めるよってなるかもしれないのに、そういった本が見えなくされているから、読書嫌いな子が出てきてしまうんだよね。

中学校の図書館で働いていて、子どもの読書活動において1番害悪だなと思ったのは、朝の会の前の読書時間や、授業で図書館を使う際に読書をする時間には、「小説」以外の本を読むことが禁止されていたことだ。学習まんがや絵本や、それどころか、写真ばっかりだからと図鑑すらも禁止だった。僕は結構、その制度について先生たちに文句をつけたが、僕の言うことにいちばん反対してたのは国語の先生だったし、図書館主任(司書とは別のひとです)だった。同じ国語教員免許を持っている身として、恥ずかしくて仕方がなかった。国語教育失敗しすぎだろ、なぁ。正規職員じゃないから希望も全然通らなかったし、現時点での学校教育や読書活動に絶望したから辞めたんですけど。まあそれは置いといて。

子どもを読書嫌いにしているのはどう考えても「小説至上主義」の大人の読書家たちなので、どうにかして考え方が改まっていかないかなあと思う次第であります。

お腹がすいたので終わります。