夢日記 4月11日

前回見た夢もそうだったけど、また大勢で人が集まってパーティー的なことをする夢を見た。

人恋しいのだろか。

前はちょっぴし怖い夢だったけど、今日は怖くなかった。意味はわからなかった。

大学の卒業パーティーのようだった。でも中学時代の友人もいた。大学の卒業パーティーってふつう、学科ごとにやると思うのだけど、全学部全生徒でやっていた。

とてつもなく広く、綺麗だけど殺風景な空間に、ドレスコードした若者が集まっていた。壁だけ、飾りとして綺麗な芸術作品がディスプレイされていて、盗難防止かいたずら防止なのか、ガラスで閉じていた。ネジ?は特別な留め具でできていたが、何名かの男女が無理やりこじ開けようとしていた。

話しかけたわけではないが、彼らのそばを通ると、「工学部にバラせないものはない」と言っていた(夢とはいえども、我ながら工学部生に随分低俗なことを言わせてしまったなと反省している)

 

僕はひとりで歩いていて、友人を見つける度に積極的に話しかけ、語り合ったあとはまたひとり離れて次に語り合うべき友人を探して歩き回っていた。みんなは特定のグループで固まっていて、僕の寂しい人間っぷりを感じた。

 

途中で、サークルの後輩に会った。夢の中ではほとんど話したことのない、随分下の学年の女の子だった(現実にはいない子だったと思う)。ほとんど話したことはないが、サークルで顔と名前は知ってるので話しかけた。彼女はもちろん卒業しないが、先輩達にお別れを言いに来たと言った。彼女以外にも、何名かそういう下級生はいた。

 

彼女もひとりだったので、しばらく話しながら一緒に会場を歩いた。壁の芸術作品を見ながら、彼女は「きれい」とうっとりしていた。

余談だが僕は大学生時代、映画を観たり作ったりするサークルに所属していた。彼女は芸術作品を見て、「わたし、こういうの撮りたかったんです」と言った。

「この作品をうつすの?」と聞いたら、「そうじゃなくて、この作品の雰囲気のような感じの映像を」と言われた。そりゃそうだ。

「私の場合、ストーリーは二の次なんですけど、映像として美しい、キラキラしたものを撮りたいんです」と言っていた。僕もだいたいそういうタイプだったので、わかるよとだけ言った。でも、ストーリーがないと映画は面白くないということにも、もう気づいていた。

いつの間にか僕はその子と手を繋いで歩いていた。

 

2人で手を繋ぎながら、どうでもいい話や映画の話をしながら壁際をゆっくり歩いていたけど、目の前に階段があり、階段の真ん中あたりに父親が座っているのに気づいた。

僕はこの女の子と手を繋いでいるところを父に見られるのが恥ずかしいと思った。その瞬間にはもうその女の子は消えていた。僕はそのことを気にも止めずに、階段を上がって父の隣まで行った。

僕がもう帰るから、迎えに来てもらうために父を呼んだということになっていた。階段は外に通じる階段だった。

父は携帯電話を見て難しい顔をしながらも僕に気づき、「もう帰るのか、まだ8時だよ」と聞いた。

うん、帰る。と言ったら、父は苦笑いして、「〇〇(妹)にも、バイト終わったら迎えに来てと頼まれてるんだけど、〇〇のバイトは11時に終わるって。お前もそれくらいに帰るかと思って、いいよと言ってしまった」と言った。

妹のバイト先は会場から近い飲食店だった。家は結構遠い。妹を待って一緒に帰ったほうが、父は負担ではないだろう。僕はいつの間にか帰りたい気持ちになっていたけど、そういう事情なら仕方ないのでもう少しいようかなと思った。

じゃあもうちょっとぶらぶらしてくるから、と父を残して階段をおりた。

 

3時間ほど時間を潰さないといけないはずなんだけど、僕は階段から近いところをぐるっと回っただけでまたすぐに父のところに戻ってしまった。かなり帰りたかった。

戻ると、父は僕の友人に囲まれていた。「やしちのお父さんですよね、」とか言われて。全員女の子だった(しかもあまり遊ばないタイプの、派手めな)

僕はその空間に行くのを少しためらったけど、父の近くに行き、座った。父は若い女の子たちに囲まれて、少し嬉しそうにしていた。友人たちはドリンクを持っていたし、ドレスだし、ちょっとキャバクラじみた光景に動揺して、座ったはいいものの僕は落ち着かなかった。女友達は、卒業するっていうもんだから、父から社会のことを聞いていた。会社勤めってどうですか、大変ですよね、えー!?課長なんですか?すごーい、みたいな。父は得意げに社会の厳しさを語っていた。下心は無さそうで、単純に若い女の子に褒められて嬉しいようだった。

僕はそんな父を見ながら黙っていた。女友達がたまに僕にも話しかけたけど、うん、とかしか言わなかった。

父の仕事の話は、僕が聞いていても面白かった。今まで自分の父親の仕事の話をじっくりと聞いたことはなかった。あれに苦労してる、これを努力している、自分がこう改善した、ここにやりがいがある……と聞いていると、父が立派な人のように思えた。

 

しばらくすると、父の携帯電話のメール音が鳴った。妹のバイトが終わったらしい。そしたら3時間もこういう会話をしていたことになるが、夢の中なので時間感覚は適当だった。

父は、妹を迎えにいくから待ってろと僕に言って、階段をのぼった。入れ違いで、サークルの先輩が来た。先輩は卒業していたが、例のサークルの後輩同様、卒業する僕たちにお祝いを言いに来たのだ。(彼は、後輩女子と違い現実に存在する先輩だった)

先輩は男性だったが、何故かエメラルドグリーンの、胸元が大きめに開いたドレスを着ていたので笑ってしまった。元々線の細い、顔もキレイめな人だったので、似合わなくはなかった(でもまあ普通に肩や胸元に柔らかさはない)

 

まわりにいた女友達はみんなサークル外の友人だったので、先輩はとりあえず僕にだけ話しかけた。オタク系?というか少し地味系のわりに、フェミニストを演じている人なので、「可愛い女の子がたくさんだね~」みたいなことを言いながら、僕の隣ではなく他の女友達の隣に座った。

「何してたの?」と先輩が言うと、女友達が「やしちのお父さんがいてぇ、社会のお話聞いてました~」と言った。みんな、先輩のドレス姿にクスクス笑っている。

現実でもそうなのだけど、先輩は僕の父と面識がある。なので、「えっ!やしちのお父さん来てたの!?」と、ギョッとした顔をして身を伏せ、キョロキョロした。まあこんな格好してるし、見られたくもないだろう。

身を伏せた時に、先輩のドレスがたゆんで胸が見えた。今度は僕がギョッとしたのだけど、先輩にはおっぱいがあった(ちなみにノーブラだった)

「先輩、お、おっぱいがついてますよ」と僕は焦りながら言った。そう言われて先輩も焦ってしまって、「は、はぁ?お、おおおおっぱいなんて無いよ」と言って、姿勢を正した。「俺におっぱいついてるわけないだろ」と言いながらも慌てていて、「ほかの後輩探してくるね」といそいそと立ち上がり、階段を降りていった。何だったんだろう。

 

先輩が去った後、女友達がちらほらと散らばっていって、少人数の女の子だけが残った。僕とよく話すほうの子だけが残ったので、僕は安心して友人たちと会話をした。

話してる途中で友人のひとりが、「あっ」と上のほうを見たので、つられて階段の上のほうを見ると、同じ学科の女友達が、おそらく彼女の父親?と並んで何かをしていた。

女友達も彼女の父親らしき中年男性も、ドラキュラのような格好をしていた。ふたりとも、タキシードにマントをはおり金色の蝶ネクタイをしていて、よくよく見たら口に牙がある。

ふたりはマントを羽ばたかせ、飛ぶ練習をしていた。父親は飛べるが、女友達は飛べていなかった。

僕達は階段を上がり、ドラキュラの格好をした女友達に、「何やってるの?」と聞いた。

彼女の話を聞くと、彼女は卒業後、父の家業を継ぐので、いま父から仕事のやり方を教わっていると言った。なんの仕事かはハッキリ言わなかったけど、まあだいたい察した。どうして今なのかはわからなかったけど、まあ…こんなに人が集まってる時だし、と何となく察した。

 

女友達たちはあまり疑問を感じなかったようで、「やしちのお父さんからも仕事の話聞いてたんだ。〇〇はお父さんの仕事継ぐんだ?もう練習してるんだね、すごいね」「私なんて就活失敗したからしばらくフリーターで~」とか何とか言っていた。

話してる途中で、会場の外からワイバーンのような、翼の生えた悪魔が入ってきた(意味がわからない)

僕らのいた階段の上は入口付近だった。僕たちは突然の悪魔の登場にパニックした。

悪魔は僕らには目もくれず、階段の下の方に向かって飛んでいった。下には人がたくさんいる。ほどなくして、人々の悲鳴が聞こえた。

 

僕はここでようやく、地下のほうに恋人がいることを思い出した。父親が迎えにくるはずなんだけど、「恋人と一緒に帰る約束をしていて、恋人が地下駐車場で待っていたんだった!」と思い出した。

 

悪魔が下に降りていったので、恋人が心配だった。地下駐車場は、人々が集まってパーティーしているフロアのさらに2階下にある。

この建物は階段しかなく、僕は悪魔が降りていった階段をそのまま降りていくしかなかった。

パーティーフロアは大荒れに荒れていて、さっきの悪魔が一匹、天井近くを飛び回りながら時々おりてきては人を襲っていた。

僕はそんな様子をほっといて、さらに2階下まで階段を降りた。

地下駐車場に出る出口の自動ドアの前で、壁にもたれかかって恋人はスマホゲームをしていた。上のフロアの騒動には気づいてないみたいだった。

「いつから待ってた?」と聞くと、「けっこう前」と言われた。「暇だったから、ひとつ上の階のショップで、お前に似合いそうな靴を買っておいた」と言って、恋人はショップ袋を僕に渡した。

気づいたら僕は裸足だった。僕はすぐに袋を開け、買ってもらった靴をはいた。壁に埋め込まれてるタイプの鏡があったので、靴を履いたあとに鏡を見てみた。なぜだかわからないけど僕は、サークルの男の先輩が来ていたのとまったく同じ、エメラルドグリーンのドレスを着ていた。買ってもらった靴は、低めのヒールの、銀色のパンプスだった。

「???」と思ったが、恋人が「もう帰ろう」と言って駐車場に向かったので、そのままついていった。

恋人の車に乗り、僕は父に、もう迎えに来なくて大丈夫だからと電話した。

地下駐車場から車を出し、建物をあとにする。僕は助手席だったので、窓を開けて振り返ると、会場からたくさんの人が慌てたようにワラワラと出てきていた。悪魔も会場から出てきて、出口に飛び出していく人々を襲っていた。

恋人は運転して前を向いているので最後まで気がつかなかった。

 

僕は前に向き直って、恋人に、「どうして銀色の靴なんて買ったの。派手だよ」と言った。恋人は、「悪魔みたいな色でいい感じじゃん?」と笑った。

さっきの悪魔は、確かに、グレーに近い銀色をしていた。

 

夢日記 4月7日

体調が悪いと悪夢を見やすい。僕は最近、よく変な夢を見る。他人の夢の話はつまらないかもしれないが、面白いと自分で思ったものは備忘録的に記録をつけたいので夢日記を書くことにした。

ここに書ける範囲の夢を見たらここに書きたいと思う(よく、プライベートな夢も見るのでそれは書かない)

 

何やら大宴会をしていた。お店ではなく、誰かの家だったがやたら広かった。

大学時代のサークルの先輩から話したこともない後輩までもいたが、別にサークルの集まりというわけではなく、全然知らない人もたくさんいた。お笑い芸人の鳥居みゆきもいた。僕は現実ではコミュ障だけど、この宴会ではいろんな人に話しかけまくっていた。

みんなでお酒を飲みながらテレビを見たり話したりしていた。僕もたくさんお酒を飲んでベロベロに酔っていた。

 

この中にひとりだけ、小学校低学年くらいの幼女がいた。僕の妹という設定らしかったが、僕の妹はもうとっくに小学生ではないし、小学生時代の妹とも全然似てなかった。現実では全く知らない女の子だったが、夢の中の僕は妹だと認識していた。

現実世界での妹もいた。それを妹Aとして、見知らぬ妹を妹Xとする。

妹Aは、まわりが大人だらけで遊び相手のいない妹Xにずっと付いていた。妹Xは斬新なおもちゃ?を持っていた。

 

水槽にしてはかなり大きい…棺桶よりはふた周りほど小さく、棺桶よりは高さのあるくらいの大きさの水槽を持っていた。しかしどの面もピッタリとプラスチック板で閉じられていて、空気が入りそうなところはない。水はいっぱいいっぱい入っている。中にはウミガメが1匹泳いでいる。

箱の面の一面をはがすと、水が溢れてくるのではなく、箱の形のままだった。水はジェルでできていた。妹Xは小さいのでそのジェルの中に入り、ウミガメと泳いで遊んだ。どうやらこのジェルには空気が通うらしかった。

僕は宴会の場にいながら、たまにこの水槽が気になって、「これはどういう仕組みなんだー?」と水槽の前をウロウロしながらジェルをつついたりしていた。大人が入ると狭いくらいの大きさだったので、妹Xのようには中には入れなかった。

 

妹たちをほっといてまた宴会でしばらく遊んだ後、妹たちの様子を見に別部屋に行くと、水槽が増えていた。6つか8つくらいになっていた。

砂をしいてカレイのいる水槽、岩場をしいてイソギンチャクに擬態してるようなヒラヒラした動きの少ない魚がいる水槽、タコとイカがいる水槽など、様々だった。

妹Xはこの時どの水槽にも入っていなくて、水槽から目を離して妹Aとのおしゃべりに夢中になっていた。

僕は水槽をゆっくり眺めた。1番端の水槽が、岩場がたくさん敷き詰められていてなんだかゴチャゴチャしていた。土煙が上がっていたので、なんだろうと思って、しゃがんで見てみた。

見ると、見たこともない生き物が岩を削っている。

大型のネコ科…ヒョウに近いフォルムなのだけど、足がワシみたいな?肉食鳥の足だった。するどい爪があり、それで岩を削っている。体は白くて、黒の大きめのまだら模様がある。ツヤのある犬のような毛並みにも見えたし、鳥の体の部分にも見えたし、かなり細かいウロコで覆われているようにも見えた。要はちょっとツルツルだった。頭にはトサカのような…トサカにしてはもっと大きくて、赤くて薄いヒラヒラしたものが何弁にも重なっていた。顔は鳥っぽかった。クチバシのような部分があるけどかなり短い。

それが2匹いた。普通の魚もいたが、この謎の生き物から遠ざかるように泳いでいた。

 

僕は「なんだこいつ!」と思って、興奮して妹Xに声をかけた。端っこの水槽に、見たことがない鳥みたいな魚?がいるんだけど、あれは何?と聞いた。

妹Xは、「えー?なにそれ?知らないよ」と言って、端っこの水槽を見に行った。

僕も妹Xについて再び水槽の前に戻るが、さっきの生き物は2匹ともいなくなっていた。「鳥みたいな魚なんていないじゃん」と言われた。「酔っ払ってるから、変なものでも見えたんじゃないの」と言われるが、ハッキリ見たので解せない。

酔っていても絶対に見たと言い張ると、妹Xは、「ここは岩が多いから、岩の隙間とか裏側とかに隠れちゃったかもしれない」と取り合ってくれた。そんなところに隠れられるような大きさではなかったのだが、水槽に入って見てきてくれると言うので、行ってもらった。

そんなに広い水槽でもないし、割とすぐに戻ってきた。

やっぱりいないよ、と言う。妹Aもずっとそばでこの話を聞いていたが、水槽に顔を突っ込んでみていた。(妹Aも大人なので、体全部は入れない)

「何もいないねー」と言う。2人にも言われると僕は自信がなくなってきて、「あ、じゃあもういいです…」と言って宴会に戻った。

 

またしばらく宴会で酒を飲んだりしゃべったりして、妹たちの様子を見に戻った。

すると、妹Xの様子がなんだかおかしい。様子?というか、雰囲気がおかしい。いつもと違う気がする。僕に気づいてこちらを見て笑うが、何か不気味な笑顔だった。張り付けたような、取ってつけたような、作り物みたいな笑顔だった。心なしか顔色が真っ白な気がする。人の顔だが、人間じゃないような感じがして寒気がした。それに、何も話さない。まあ僕もこの変な雰囲気におされて、妹Xに何も言えなかったのだけど。

妹Xが変だよ、と言おうと思って、妹Aを探した。振り返ったらそんなに遠くないところにいたのだけど、宴会に来ていた知らない男と体を絡めあって、深いキスをしていた。妹Aはそういうことをするタイプではない。僕は、えっ、と思って、ラブシーン中の妹Aの名前を呼んだ。

名前を呼ばれて、妹Aは顔だけをこちらに向けた。見知らぬ男もいっしょにこちらを向く。2人とも、妹Xと同じ、奇妙な笑顔を浮かべていた。同じような、ではなくて、妹Xの顔と全く同じだった。男のほうも。

ここまでくると、「なんかなんとなく変だ」じゃなくて、「変だ」が確信になって、怖くて怖くて吐き気がした。

すぐにみんなの所に走って戻りたかったけど、背を向けたらダメな気がして、ゆっくり後ずさりした。

そうしたら、妹Aが男から離れてゆっくり僕に近づいてくる。怖すぎて身がすくんで、僕は動けなくなってしまった。

妹Aが僕を指さすように手を前に差し出した。鳥の足みたいな形で、爪が鋭かった。

あ、死ぬな、と思った時に、例の笑顔を浮かべたまま妹Aが言葉を発した。

「擬態する」と聞こえたが、同時にいろんな言語が発音されていた。「ミミック」とも聞こえたので、擬態するという言葉をいろんな国の言語で同時に言ったのかもしれない。

 

妹Aはそのまま笑顔で、人がたくさん集まっている大部屋のほうへゆっくりと歩いていった。

その後ろを、妹Xと男もゆっくり付いていく。

行かせてはダメだと思ったが、僕はまったく動けなくなっていた。怖いと思って涙だけは出ていて、妹たちが行った方向をじっと見ていた。

数分後に、大部屋の方向から人が出てきたのだけど、またさっきとは別の男性で、あの気持ち悪い笑顔を浮かべていた。

 

というところで目が覚めた。

怖かったけど面白い夢だと思った。割とストーリーがしっかりしていて良かった。

怖い部分とは全然関係ない宴会パートも結構詳細に見たけどそれは省いた。僕の大嫌いな先輩が隣に座った時に大変不快に思ったシーンもあったよ。どうでもいいね。

 

感想を共有しないことができない

二重否定。

今後しばらく長い間お仕事が休みになった僕です。今日から家で何をしようかなぁとぼんやりしている午前9時です。とりあえず猫を撫で回しています。

 

家には、Netflixが繋がっています。僕は映画を見るのが大好きです。ポケモンもまだクリアしてません。週刊ジャンプも先週分から読んでないし、人から借りた本もまだ読んでいません。

やることはたくさんあるっぽいぞと思うのですが、イマイチやる気が出ない。

そもそも2月もまるまる1ヶ月休んだのにほぼ寝て過ごしたので、今後の生活もお察しである。

 

暇なわけではないけれど、気力が湧かないのです。Twitterを眺めても、みんな学校やお仕事がんばってるから人がいない。映画や漫画やゲームや読書はなんでやる気がわかないんだろかなあ、趣味なのになあ。まだ洗濯物を干していた方がマシというレベル。できれば散歩がしたいのだけど、外出は基本的に禁止だ。

 

なんで…どうして趣味が楽しくなくなったのか。と考えて、思い当たることがある。

映画や読書やゲームは、元々昔から趣味ではあるが、昔から、それらは誰かと感想を共有することを前提におこなっていた。

どれもひとりでできる趣味だけれども、映画は同じ映画を見た友人と語り合いたいし、読書もゲームもひとりでしたとしても、同じ本を読んだ・同じゲームをした友人と語り合いたい。インターネットの掲示板やSNSで話すんではなく、誰かと面と向かって、どうでもいい話も交えながらその場で趣味の感想を共有したいのだ。要は、おしゃべりすることが大前提である。

 

散歩や猫と遊ぶのも趣味だけれども、それらは特に共有すべき感想がない。「いい天気で気持ちがいいなあ」とか、「猫が可愛いなあ」とか思うのを誰かと共有する意味は無いと思っている。僕は鉱物も好きなのだけど、鉱物も同様だ。

映画、読書、ゲームも鑑賞中はひとりで楽しめるもの。散歩や猫や鉱物もひとりで楽しめるもの。だけど前者と後者の間には僕の中では明確な違いがあり、誰かと感想(レビュー)を共有できない前者の趣味はあまりやっても意味がないのである。。。

 

僕の恋人は、基本的になんでもひとりでやるんですが、僕が見てない映画や漫画や、僕がやってないゲームの話も、僕が知らなかろうがペラペラと話します。実は半分くらい聞き流しているのですが、僕の場合は、そういうふうに、内容を知らない人に映画やゲームの話ができません…

知らない人には、かなり前提的なことから話さないといけないじゃないですか。あらすじとか、ゲームのルールとか仕組みとか。そういうのを話すところから始めないといけないのが面倒で、いちばん盛り上がったあの部分!ラストシーン!裏話!制作秘話!そういうのをワイワイ話したいのであって、もし内容を知らない人に前提的なことから話してそこにたどり着いたとしても、「へぇ、」としか思われないのはちょっと嫌だ。嫌だと言っても、へぇとしか思わないものはへぇとしか思わないものだとわかってるので、僕は彼らを責めない。僕が彼らの立場でも「へぇ」としか思わないだろうし、現に僕は恋人の話を半分聞き流している。なので僕は内容を全部知ってる人としか趣味の話はしたくない。

 

そうなると、ひとりで僕しか知らない映画を見ても、本や漫画を読んでも、ゲームをしても、あんまり意味がないんだよなぁ…と思ってしまう。

じゃあ恋人が最近プレイしているゲームをやれば語り合えるのか?といえばそれもまた…。ゲームの好みが違いすぎて(というかハイレベルすぎて僕にはできそうにない)、あまりやる気がわかない。

みんなで僕ん家に集まって、お菓子食べながらマリオカートしたりズートピア見たりしようよ、って思うけど平日の日中である。みんな大人になったんだなあと思いながら、横になって猫をなでている。

 

とりあえず週刊ジャンプは惰性で読めるので読もうと思う。

その後は…なんか…ナノブロックで遊んだり物を作ったりして日々を過ごそうかな。

 

今日と明日を有意義に過ごすために。

色々なことがあって(本当に色々ややこしいことがあった)、2月はまるまる仕事を休んだ。

あさってからはいつも通り出勤する。体調は未だ万全ではないので不安もあるが、1ヶ月も休んだんだし、頑張らないといけないよなと思う。

 

そしたら今日と明日で小学生よりも長い冬休み(春休み?)が終わるわけだから、有意義に過ごしたいと考えるわけなんだけど、今日は残念ながら朝イチで憂鬱な気持ちになってしまい、昼になってもまだ気分が上がらないのでどうしようかと悩んでいる。

久々にいい天気になったので、たまっていた洗濯物を干した……それは気分が良かった。ぼくは晴れている日に太陽の下に出るのが好きなので、出かけようかとも思った。だけど入浴したり着替えたりするのが死ぬほど億劫だ。僕はこの面倒くさがり故にこの長期休みの大半を無駄にしてしまった。今日こそは出かけたい…と思いつつ、、、横になってる。

 

休んでいる間に、1日の太陽の動きを覚えた。職場はあまり窓がないし、学生のころは太陽の動きなんて注目したことがなかったが、今は大変ひまなので横になりながら太陽が何時にどの位置に来るのかを記憶した。月末になったいまは、時計を見なくても太陽の位置でだいたいの時刻がわかる。

太陽は意外と早く動く。僕が何もしないからかもしれない。ずっと同じ場所で横になって窓の外を眺めていると、僕の上にかかるものの影があっという間に過ぎ去っていっては新しい別の影がかかる。そのかん、死んだような気持ちになる。気がつくと夕方の5時頃になっていて、僕はのそのそと起きて夕飯の買い物に行くというサイクルだった。

 

テンションの高い日は普段はやらない家事をやった。達成感が良かったけど、気持ちや体調が追いつかない日はできなくて、できない日のほうが多かった。まだやり残してる箇所の掃除があるので、今日明日の2日間でやり切りたかった。まだ夕方まであと6時間もある。頑張ればできるのだと思うけど、6時間はあっという間に過ぎ去る。恋人はこの6時間を、早く過ぎ去れと思いながらゆっくり過ぎる時の中で働いているのだろうと思うと、大変申し訳なくなるのであまり考えないようにしている。

 

6時間はあっという間に過ぎるから今日という日もあっという間に終わるし、明日もあっという間に終わって、出勤日がくる。憂鬱で仕方がない。仕事が始まるのが嫌というより…長期休み中に済ませたかったノルマを達成できないであろうことがいやだ。

気持ちよく長期休みを終わらせるためには、「最後まで時間いっぱいだらけよう」ではなく、動き回ったほうが有意義なんだ。

わかってるけど、体は起き上がらないし、僕の上にかかるものの影はけっこうなスピードで過ぎ去っていく。

早く起きて、ちゃんとおかたづけができたら、近所でまだ咲いたままになっている桜を見に行こうと思う。

思う分には自由だと思う。

 

 

僕と宗教のはなし

幼少のころから、他人にあまり詳細を話したくない自分の事情というものがいくつかある。バイ・セクシャルであることもそうだし、母方の祖父の死に際とか(めちゃくちゃ色々あった。話せる機会があればいいと思う)。

今日はTwitterで子どもと宗教のお話を見たので、僕も宗教の話がしたい。

 

そもそも日本では宗教の話はなんだかタブーだ。あまり他の国ではそうじゃないんじゃないかと思う。例えばカトリックなんかは昔は異教への差別が酷かったけど、今の時代、キリスト教圏でイスラム教や仏教の話をしたって嫌な顔をするひとはあまりいないだろう。過激派宗教っていうのもまあありはするけど。

 

日本で宗教の話がタブーである理由はよくわからない。「新興宗教」に対する警戒心が強すぎて、その他の宗教や三大宗教にも警戒心を持っているような気配がある。僕は無宗教じゃないので、無宗教のひとの気持ちはよくわからない。

 

僕はプロテスタントキリスト教徒なんですけど、割と真剣に神様を信じているし、悪い事をしたと思ったら神様に懺悔するくせがついている。自身の平穏を祈る時もある。だけど教会には行かないし(昔は行ってた)、聖書の勉強もしてないので全く詳しくない。神様の存在だけを信じて祈る時は本気で祈っているので、そこそこ熱心なキリスト教徒だと自分では思っている。

なんかの映画かドラマかテレビ番組かで、キリスト教徒が日本の無宗教者に、「どの宗教も信じてない??じゃあきみは何か起こったときに何を心の拠り所にしてるんだ?」と聞いた場面があった。僕も無宗教者に対しては割とそんな気持ちでいる。拠り所になる神様がいないことをバカにしているんじゃなくて単純な疑問だ。そして無宗教者は、心の拠り所に神様を置くことを不思議に思ってるんだろうなと感じている。その感じはわからなくもないけど、ほんとにそれで大丈夫なの?神様信じてないでいるの怖くない??ってどうしても思ってしまう。それが信条の違いというものだ。

 

だけど僕がそういうふうに神様を思っていることは、あまり他人には話さない。昨今の日本ではセクシャルマイノリティの議論が高まっているので、現時点では自分がバイセクシャルであることを話すよりも、自分がクリスチャンであるという話をするほうがハードルが高いような気がしてくるほどだ。

バイセクシャルであることを話すと、「そういう人もいるよね」と許容されそうな気はする。でもクリスチャンであると言うと、「なんで宗教やろうと思ったの?」と言われそうな気がする。前者は選びたくて選んだものじゃなくて、後者は選びたくて選んだものだからだろうか。

「なんで宗教やろうと思ったの?なんで宗教入ったの?」と聞かれても困る。子どもの頃からそうだったからだとしか言えない。そしたらたぶん、強制されたのか可哀想という目で見られそうだ…とごちゃごちゃ考えて、結局黙ってしまう。

 

親も祖母もキリスト教徒だから自然に教会に通ったが、宗教を強制されていたと感じたことは一度もない。厳しい家庭なら、宗教を強制されてると感じて嫌になる子どももいるだろう。でも僕はそうじゃなかったし、それは宗教の問題ではなく家庭の問題であると思う。

家族で新興宗教に入っている友人がいて、ネットではその新興宗教は勧誘ノルマが厳しいとかルールが厳しくて信者の子どもが可哀想とかよく聞くが、その友人は自身の宗教に厳しさを感じたことはないそうで、満足していると言っていた。だけどその友人も、僕と同様に自分が所属している宗教の話を積極的にはしなかった。

 

僕や友人が宗教の話をしないのは、宗教に恥ずかしさを感じているからではない。宗教に所属していることを嫌なことだと思っているからでもない。なんとなくまわりの雰囲気を見て、「話してはいけない」と思ってしまう。自己防衛のようなものだ。

宗教のルールは宗教それぞれ、家庭それぞれ、同じ宗教に属していても信じる度合いやルールを守る度合いは人それぞれ。僕達はそれを理解しているけれど、無宗教者の人たちにとっては、全部同じに見えるらしい。何が悪くてそう思わせているのかはよくわからないんだけど、親がやってるから子どもの頃から宗教に入っている=可哀想になってしまうのだ。すべての宗教、すべての家庭、すべての信者をひとくくりにして。

強制されてるから可哀想な思いをしている宗教家の子どもはもちろんいる。少なくもないだろうけど、だからといって、全員に当てはめないでほしいとも思っている…。

 

僕がいま教会に行ってないのは、教会が嫌で行きたくなくなったからじゃない。幼少期のトラウマによるところが大きい。そのトラウマは教会から与えられたものではない。

幼少期は、毎週日曜日に教会に通っていた。僕は教会が好きだった。礼拝をするのも聖歌を歌うのも好きだった(今でもたまに聖歌を鼻歌で歌うくらいには好き)。日曜学校という、信者の子どもたちが集まって子ども向けの聖書の物語を読んだり、塗り絵をしたり、劇をしたりする時間があったのだけどそれも好きだった。礼拝のあとにみんなでおかずを持ち寄って机を囲んで大勢で昼食を食べるのも好きだった。牧師さんも好きだった。クリスマスミサも大好きだった。

でも行かなくなったのは、学校の友だちが原因だった。

友だちは嫌いじゃないし遊びたいけど、平日や土曜日にも遊べる。僕は日曜日は教会に行きたかった。それで、日曜日の誘いは断っていた。

たしか小3くらいの頃までは、「教会に行くから日曜日は遊べない」とはっきり言っていた。友だちもそれで納得していたし、教会って何するの?って聞いてきたので、嬉嬉として話した。

高学年くらいになると、教会に行くから日曜日は遊べない、があまり通用しなくなった。みんながみんなそうじゃなかったけど、何人かの友だちは不満そうな顔をするようになった。宗教について、少し知識がついてくる年ごろだった。「日曜日に遊びに行けないなんて可哀想」と言われるようになった。「教会行かないといけないの大変だね」とも言われるようになった。

僕のところの宗派や家庭は、あまり厳しくなく、日曜日に学校行事があったり、友人と土日をかけてお泊まりに行きたいという日は、普通に教会を休んでよかった。「教会を休む」という概念すらあまり無かった。休むとか行かなきゃとかそういうものじゃなくて、行くかどうかは完全に自由だった。そうじゃない所もあるだろうけど今はその話はしない。少なくとも僕は自由だったのに、可哀想だと言われた。

 

可哀想という言葉が逆に僕を縛り、僕はこのころから、ごちゃごちゃ考えるようになっていた。もし、「教会に行くのは強制じゃなくて、行きたいから行ってる」と友だちに言ったら、「日曜日はお前らと遊ぶよりも教会に行くほうが楽しい」と言ってるようなもんじゃないか?そう思われても仕方ないんじゃないか?

友だちと遊ぶのが楽しくないわけじゃないし、比べてどちらが楽しいとか大事かとかじゃなくて、僕は単純に、教会は日曜日にしかやってないから日曜日は教会に行きたいって思ってるだけなのに。

 

そう思っている間に、僕は全く別の件でいじめを受け、「こいつ教会とか行ってんだろ」みたいなことも言われた。いじめられるようになった原因とは関係なかったけど、からかいの種にはなってしまった。その頃にはみんなにも怪しいほうの新興宗教の知識がついており、僕が宗教をやっていることを、いじめグループには「あやしい」「気持ち悪い」と言われるようになった。そう言われるとそうなんじゃないかって気持ちにもなってきて、僕の信仰心は簡単にゆらいだ。

いじめられてるあいだも、別のクラスには一緒に遊ぶ友だちがいて、その友人たちに「日曜日は教会に行くから遊べない」と言うのがますます申し訳なくなっていた。「教会に行くから」ではなく、別の理由をつけて(家族で遠出するからとか、おじいちゃん家に行くからとか)断るようにした。そういう仮病みたいなやつでは毎回断りきれないので、教会のほうを休んで友だちと遊ぶことも多くなった。

親や祖母や教会のひとたちは、「遊びたい盛りだから教会に行かなくなっても仕方ないね」と言っていた。そうじゃない、そうじゃないんだよと思っていたけど、教会に行くことを可哀想と言われたりバカにされるからだとは、教会に通う大人たちには言えなかった。

 

そうこうしながら中学校まではなるべく教会に通っていたけれど、高校にあがって、初めて男性の恋人ができて、日曜日の遊びの誘いを断っていたのも含めて彼とはいろんなゴタゴタがあり、ストーカーやら暴行やらがあって酷いトラウマになってからは、もう無理して日曜日を潰さなくていいんじゃないかと思うようになってしまって、完全に教会には行かなくなった。

自身の宗教の話を他人にすることも無くなっていたし、「話したら絶対ややこしいことになる」ともわかっていた。

 

大人になっても話せない。職場で、堂々と宗教をやっていると明言していた人がいたのだけど、彼はカフェインは勧められても絶対とらないし、日曜日の休日出勤は絶対断るし、宗教でこういう行事があった、こういう信者と出会ったと普通に話していた。それを白い目で見る人もいるわけで、「ああいうふうに、宗教やってる人って…」と影で言われているのを僕も聞かされていた。僕は合わせて笑うしかなかった。

彼は、楽しく宗教をやってるのを楽しいよって話してるだけなのに、ほかの人は勧誘されるんじゃないかと勝手に身構えたりするのだった。しつこい勧誘された経験があるからそうなってしまうんだろう。わかるけど…。しつこい勧誘なんてする宗派が悪いとも思うけど…。

 

そんなこんなで、僕はキリスト教徒ですって言いづらくなっていく。祈りのポーズもとらず、心の中で祈るだけになってしまった。僕はいまのスタイルでも満足しているけど、正直言うと、もし自分の子どもが生まれたら、できたらキリスト教徒に入ってほしいと思っている。

それを配偶者がどう思うのか。親戚がどう思うのか。子どもをキリスト教に入れたことが友だちや会社のひとにバレてしまったらどう思われるのか。そもそも子どもがある程度大きくなった時に、僕と同じ悲しさを感じてしまわないか。そういうことを色々考える。

宗教やってたら、宗教自体のせいじゃないのに悲しい思いをしてしまう。教会か友だちかなんて子どもに選ばせたくないし、そうじゃなくても、もっと大きくなったら宗教差別があることを知って、宗教について沈黙しないといけなくなるのだ。けっこうつらい。

そんなんなら、入信させないほうがいいんじゃないか…とも思うけど、はじめの方でも書いたけど、僕は心の中に神様という拠り所がないということに「大丈夫なの?」と思ってしまうし、怖いとも思う。なんだかんだで無宗教のひともそれでうまくやってんだから大丈夫なんだろうけど、僕からしてみると、そこに神様が置かれないことは心に穴があくようなもんじゃないかというふうに思えてしまう。心に神様がいない状態というものがどういうものなのか、キリスト教徒の僕にはわからないから、自分の子をキリスト教に入れないと納得して決断するまでには、様々な不安がついてきそうだ。

まだ子どももいないのに、Twitterで宗教家族と子どもなんてテーマのマンガを見たので、自分の子ども時代を思い出しながらごちゃごちゃと考えた。

厳しく子どもに宗教を強制する家庭と、普通の宗教とをごっちゃにしない社会にいられたら、僕の宗教生活はしあわせだったんじゃないかと思う。

 

お家にずっといるのは暇だから

暇だから。

だいぶ前から体調を崩していて、家で横になっていることが多いです。昔は、メンタル面がやられて体調を崩すということもありましたが、体調が先に崩れてメンタルが死ぬというパターンもあるんだなと実感しています。暇だと、本当に色々なことを考えるのですが、僕が生まれつき屈折したにんげんだからなのか、マイナスな思考のほうが割合が高い。

 

土曜日から1週間、自宅安静の指示が出て、今日(水曜日)まで本当に1歩も外に出ていないし、娯楽という娯楽も特に楽しんでないのですが、お医者さんに「外に出ちゃダメ」とハッキリ言われたほうが、「体調キツイから休もう…」と自分の判断で会社を休むより断然気持ちがラクで、自宅安静になってからはあまり憂鬱な気持ちになりません。結局は、先週までメンタルが落ち込んでいたのは、単に“体調がキツくて家でじっとしないといけなかったから”ではなく、自己判断で体調が悪いと決めて会社を休むという行為に罪悪感があったからなんだなと思います。実際問題体調が悪いんだからドクターストップがかかるまでもなく罪悪感を抱かずに休めばよかったのに。そういう勝手な罪悪感が鬱に繋がるんだよな、ってわかっちゃいるし実際落ち込んでたけど、何年経っても学習しないものだ。

 

土曜日からは、心穏やかではあるがやっぱり暇なので、色々と考えることはやめていない。

マイナスな想像はしなくなったのですが、かといってポジティブに現在や未来を考えているわけでもなく、ムズカシイお勉強や世間のことを考えているわけでもなく、映画や小説のことを考えているわけでもなく、楽しいことも含めてなんだかややこしいことを考えるのが全部面倒くさくなってしまって、数分後には何考えてたか忘れるような、どうでもいいことばかり考えています。

 

Twitterでパッと目に付いた他人のツイートのことについてチラッと考えて自分の考察を書いてみたり、ネット掲示板で目にした書き込みに適当にレスつけたり、そういうアホな廃人みたいになっている自分自身について、ぼんやりと「退屈だなあ」と思うのが最近の思考回路です。

この「退屈だなあ」という気持ちには、別にツライとかしんどいとかいう意味合いは込められてなく、ただ本当に感情が抜け落ちてしまっているという感覚がするので、「そりゃまずいかな」という危機感をようやっと自宅安静4日目にして抱いたので、何かしら自分の気持ちを書いておこうと思いました。別段、誰も読まなくていいとは思ったんですが、自己顕示欲は強いのでTwitterとリンクさせておきますね。というより僕の記事はたいてい、誰も読まなくていいものです。誰も読まなくていいようなものを書いて露見したくなるのが僕の性癖です。

 

この自宅安静期間中に、もっと有意義なことを……やろうと思えばできるんですけど。

映画レビューアフィブログな。作る作ると言っていつまでも放置しています。サイト編集のログインIDもう忘れてしまったんですけど。

詩作だってできるし、家の中のいらないものを整理してネットフリマで売ることもできるし、カードゲームのデッキ構築の構想だってできる…。でもそういうことしないのは、前述の通り、小難しいことを考えるのが面倒になっているからです。脳みそがスカスカになっている気がする。現状、「そういうことをしなくても生きていける」という状況だからなのか…毎日とりあえず飲食と排便と睡眠だけして、ひたすら「生きる」という行為だけでいいかなと思ってしまう。

 

僕は思春期のころから根暗で、心療内科にかかったこともありますが引きこもりになったことはありません。今の状況も厳密には引きこもりではないと思うんですが、「引きこもりの心理ってこういうものかしら」とちょっとだけ思ってます。この考え方が間違ってて、引きこもりのかたに不快感を与えたら申し訳ないです。

 

せっかくだから、仕事もない自由時間を満喫したい。自宅安静期間、あと3日しかないんですが、どうにか無気力と戦って有意義に過ごしたいです。

 

ファンタジーってなんなんだろうか

最初に言っておくけど僕は文学のお勉強はしたことがないので、これから書く「ファンタジーってこういうものでしょ!」というのは僕の理想であって、学術的な定義でも偉い人が言ったわけでもないのでこの記事は別に誰も読まなくてもいいです。

 

ファンタスティック・ビーストを見て、「ファンタジーは死んだんだな」と思った話。

 

色々ネタバレになるので詳細は省くけれど、ファンタビは前半はめちゃくちゃドファンタジーだった。後半はファンタジーじゃないなあと思ったけど、面白かった。ファンタビが面白くなかったわけじゃない。ファンタジーの時代が終わったんだと思って寂しくなっただけだ。

 

という気持ちをなかなか他人に理解されないような気がしたので、ファンタジーってなんだろうっていうのを書いておきたくなった。

ファンタジーって色々あると思うけど、ゲームとかラノベとかエロ漫画みたいなアレは全く別ジャンルだから忘れてほしい…。ここで話すファンタジーは、海外児童文学のアレだ。

 

僕が思う、ファンタジーとして完成されすぎている作品といえば、果てしない物語、指輪物語ナルニア国物語とかあのへんになる。もう「古典」と言われてしまうものだ。わりかし最近のでいうと、イーザウのネシャンサーガとか、忘れられた記憶の博物館とか、レイチェルシリーズとか、バーティミアスとかそのへんで、

日本の作品でいうと、守り人シリーズとか、シェーラひめのぼうけんとか、ブレイブストーリーとか、あのへん。龍の住む家も良かった。あれも日本の作品だったかな。

 

ファンタジーにはふたつのパターンがあると思う。

元々「我々の世界」にいた主人公が異世界に迷い込むタイプ(最近ラノベ界隈で流行りらしい)と、

完全に異世界だけで世界が完結してるタイプ。

どっちも数としては半々かというとそうではなく、ファンタジー作品には後者の方が圧倒的に多い。

 

僕が「ファンタジーってこういうものでないとだめだ」と思っている基準のひとつに、「我々の世界が介入しない」というのがある。

「我々の世界」とは違う世界を描いているからこそのファンタジーであり、「我々の世界」がチラつくことはファンタジー作品において邪魔すぎる。異世界に迷い込む型の主人公は異世界への適応力が高くないといけないし、「我々の世界」と行き来ができるなんて言われるともうよっぽど上手くない限りは萎えるしかない。だから異世界に迷い込む型のファンタジーは難しいんであって、簡単にわかりやすいファンタジーらしいファンタジーを作ろうと思ったら、異世界だけで完結してる型が書きやすいんだと思う。

 

その点でいうと、「主人公がファンタジー世界に迷い込み、また「我々の世界」に帰ってくる作品」代表の、果てしない物語やナルニア国物語は本当に優秀だと思う。

主人公はたいてい、「我々の世界」で悩みを持っていたり、不満を持っていたり、成長する余地があったりする。それでそれをファンタジー世界に持っていくが、「我々の世界」とは直接的には関係しないところで主人公は成長を遂げ、ファンタジー世界を救う英雄になるんだけども、またファンタジー世界から「我々の世界」に帰ったときには、主人公は「異世界の英雄」としてではなく、「我々の世界」基準での一般的な子どもとして、大人から見れば小さな成長をあらわにしているのである。

これがファンタジー作品には大切で、「我々の世界」と「ファンタジー世界」には、どうしても隔たりがなければならない。主人公は自分が元いた世界と異世界とを行ったり来たりできたとしても、ふたつの世界をつなぐような人間にはなれない(世界をつなぐって何?神様か?そういうことができる最強すぎる主人公は萎える)。「我々の世界」と「ファンタジー世界」は行き来できうる関係だとしても、お互いが干渉できる関係であってはいけない。そんなことができてしまったらもはや、「ファンタジー」ではないのだ。わかってほしい。読者の我々からしてみれば、行けそうでもどう頑張っても行けない憧れの世界でなければならないんだ。わかってほしい。たとえ、「本の中における我々の世界」だろうがなんだろうが我々の世界は我々の世界であり、いかなる場合においても「我々の世界」はファンタジー世界と交わってはいけないんだ。

 

だから、ハリーポッターシリーズは、僕個人としては優秀なファンタジー作品と思ってるんだけど設定自体がかなりギリギリのラインを通っていた。

人間世界にまぎれて暮らす魔法使い。人間世界はもちろん「我々の世界」だ。交わってしまってる。だけど、あの作品において非魔法族には魔法の存在が隠されている。一部知っているひとはいるが、そのひとたちもほかの非魔法族に内緒にしてるし、その他の人にバレたら忘却される。そういう約束事のうえで、ファンタジー世界と「我々の世界」がかろうじて線引きされるという、ギリギリで綿密な「設定」がとても優秀だった。この作品における「ファンタジー世界」は、「我々の世界」の文字通りすぐ隣にあるうえに、しっかりとした隔たりもある。この作品が発表されたことで、「僕もいつかホグワーツに入学(編入)できるかも」と胸を躍らせた子どもが全世界にたくさん湧いて出てきただろう。でもできない、期待してるけどちょっとわかってる。そういう憧れのままというのが心地よかったよな。な?そういうのがファンタジー作品のお約束であってほしかった。

 

「魔法が使えれば」「魔物がいれば」、イコールファンタジーになるというわけでは決してない。いやカテゴリー的にはファンタジーかもしれないけど、生粋なファンタジーではない。ファンタジーの亜種と言ってもいいくらいだ。

ふつうに魔法が使えるひともいると認知されていてふつうに魔物もいる「我々の世界」が描かれているとすれば、それはもう、その世界は「我々の世界」ではない。例えばイギリスという具体的地名が出ていたとしても、読者は「それは自分が知っているイギリスとは違う」と無自覚的にでも認識できてしまうし、そう思われた時点で、この作品の世界は、「ファンタジー世界と我々の世界をきれいに分断できていないが、完璧なファンタジー世界を描いているわけでもない」という中途半端な世界になってしまう。僕としてはまあ萎える。優秀なファンタジー作品とは思えない。何が描きたいんだ?って思う。だから「バケモノの子」はダメだったんだよ(突然の批判)

また例えば今月末に公開される予定の、「ドクター・ストレンジ」。あれは魔法で悪者と戦うが、ファンタジーか?と問われれば、大多数が「ヒーロー映画」「アクション映画」と答えると思う。何故なら描いている世界と舞台は「我々の世界」でしかないからであり、作品はファンタジー世界を特に意識していないからだ。だからあれは自他ともに「ファンタジーではない」と言い切れる作品だと思う。「マイティ・ソー」あたりなら、ファンタジーに分類したがるひともいるかもね。

 

アメコミの話は置いといて

昨今はゴリゴリのファンタジーというのがどうやら売れないらしい。「我々の世界」に関係ある話じゃないと面白いと思ってもらえない風潮がある。

だからファンタビは、「魔法生物のおはなし」じゃなくて「ノーマジ対魔法使いの中で発生した、ヒトと社会の闇のおはなし」になってしまったし、戦いの場はファンタジー世界ではなくまちなかや地下鉄になってしまったんだと思う。ロードオブザリングとかナルニア国物語みたいに、不思議な生き物たちがぞろぞろと出てきて、不思議な生き物たちがメインになる話ではない。するともうこれはファンタジーなのか?いや違うだろ、としか言いようがない。ファンタビは、魔法こそは出てくるが「我々の世界」の差別と抑圧の構造のおはなしだ…。魔法はアクセントであり、魔法生物はオマケだ。

 

しかしそれはファンタビが作品として出来損ないっていうわけじゃない…。面白かった。だけどもうこれは「僕が思ってたファンタジー」ではないし、今後こういう「ファンタジーっぽい」作品が出てきても、ファンタジーではなく結局「っぽい」ものでしかないんだろうなと思う。ふたたび、王道ファンタジーが爆発的に売れるようになるまでは、たぶんずっとそうだ。それを寂しいと思うだけの話でした。

 

余談だけど、「君の名は。」はファンタジーらしいよ。ウケるすぎる。どっちかというとSFに近いと思うんだけど(どっちかというと)、ファンタジーではないだろ……。でも昨今のラノベ界隈の様子を見てたら、まあ、「ファンタジー」と呼んでしまうのかなあと思わないでもない…。