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今日と明日を有意義に過ごすために。

色々なことがあって(本当に色々ややこしいことがあった)、2月はまるまる仕事を休んだ。

あさってからはいつも通り出勤する。体調は未だ万全ではないので不安もあるが、1ヶ月も休んだんだし、頑張らないといけないよなと思う。

 

そしたら今日と明日で小学生よりも長い冬休み(春休み?)が終わるわけだから、有意義に過ごしたいと考えるわけなんだけど、今日は残念ながら朝イチで憂鬱な気持ちになってしまい、昼になってもまだ気分が上がらないのでどうしようかと悩んでいる。

久々にいい天気になったので、たまっていた洗濯物を干した……それは気分が良かった。ぼくは晴れている日に太陽の下に出るのが好きなので、出かけようかとも思った。だけど入浴したり着替えたりするのが死ぬほど億劫だ。僕はこの面倒くさがり故にこの長期休みの大半を無駄にしてしまった。今日こそは出かけたい…と思いつつ、、、横になってる。

 

休んでいる間に、1日の太陽の動きを覚えた。職場はあまり窓がないし、学生のころは太陽の動きなんて注目したことがなかったが、今は大変ひまなので横になりながら太陽が何時にどの位置に来るのかを記憶した。月末になったいまは、時計を見なくても太陽の位置でだいたいの時刻がわかる。

太陽は意外と早く動く。僕が何もしないからかもしれない。ずっと同じ場所で横になって窓の外を眺めていると、僕の上にかかるものの影があっという間に過ぎ去っていっては新しい別の影がかかる。そのかん、死んだような気持ちになる。気がつくと夕方の5時頃になっていて、僕はのそのそと起きて夕飯の買い物に行くというサイクルだった。

 

テンションの高い日は普段はやらない家事をやった。達成感が良かったけど、気持ちや体調が追いつかない日はできなくて、できない日のほうが多かった。まだやり残してる箇所の掃除があるので、今日明日の2日間でやり切りたかった。まだ夕方まであと6時間もある。頑張ればできるのだと思うけど、6時間はあっという間に過ぎ去る。恋人はこの6時間を、早く過ぎ去れと思いながらゆっくり過ぎる時の中で働いているのだろうと思うと、大変申し訳なくなるのであまり考えないようにしている。

 

6時間はあっという間に過ぎるから今日という日もあっという間に終わるし、明日もあっという間に終わって、出勤日がくる。憂鬱で仕方がない。仕事が始まるのが嫌というより…長期休み中に済ませたかったノルマを達成できないであろうことがいやだ。

気持ちよく長期休みを終わらせるためには、「最後まで時間いっぱいだらけよう」ではなく、動き回ったほうが有意義なんだ。

わかってるけど、体は起き上がらないし、僕の上にかかるものの影はけっこうなスピードで過ぎ去っていく。

早く起きて、ちゃんとおかたづけができたら、近所でまだ咲いたままになっている桜を見に行こうと思う。

思う分には自由だと思う。

 

 

僕と宗教のはなし

幼少のころから、他人にあまり詳細を話したくない自分の事情というものがいくつかある。バイ・セクシャルであることもそうだし、母方の祖父の死に際とか(めちゃくちゃ色々あった。話せる機会があればいいと思う)。

今日はTwitterで子どもと宗教のお話を見たので、僕も宗教の話がしたい。

 

そもそも日本では宗教の話はなんだかタブーだ。あまり他の国ではそうじゃないんじゃないかと思う。例えばカトリックなんかは昔は異教への差別が酷かったけど、今の時代、キリスト教圏でイスラム教や仏教の話をしたって嫌な顔をするひとはあまりいないだろう。過激派宗教っていうのもまあありはするけど。

 

日本で宗教の話がタブーである理由はよくわからない。「新興宗教」に対する警戒心が強すぎて、その他の宗教や三大宗教にも警戒心を持っているような気配がある。僕は無宗教じゃないので、無宗教のひとの気持ちはよくわからない。

 

僕はプロテスタントキリスト教徒なんですけど、割と真剣に神様を信じているし、悪い事をしたと思ったら神様に懺悔するくせがついている。自身の平穏を祈る時もある。だけど教会には行かないし(昔は行ってた)、聖書の勉強もしてないので全く詳しくない。神様の存在だけを信じて祈る時は本気で祈っているので、そこそこ熱心なキリスト教徒だと自分では思っている。

なんかの映画かドラマかテレビ番組かで、キリスト教徒が日本の無宗教者に、「どの宗教も信じてない??じゃあきみは何か起こったときに何を心の拠り所にしてるんだ?」と聞いた場面があった。僕も無宗教者に対しては割とそんな気持ちでいる。拠り所になる神様がいないことをバカにしているんじゃなくて単純な疑問だ。そして無宗教者は、心の拠り所に神様を置くことを不思議に思ってるんだろうなと感じている。その感じはわからなくもないけど、ほんとにそれで大丈夫なの?神様信じてないでいるの怖くない??ってどうしても思ってしまう。それが信条の違いというものだ。

 

だけど僕がそういうふうに神様を思っていることは、あまり他人には話さない。昨今の日本ではセクシャルマイノリティの議論が高まっているので、現時点では自分がバイセクシャルであることを話すよりも、自分がクリスチャンであるという話をするほうがハードルが高いような気がしてくるほどだ。

バイセクシャルであることを話すと、「そういう人もいるよね」と許容されそうな気はする。でもクリスチャンであると言うと、「なんで宗教やろうと思ったの?」と言われそうな気がする。前者は選びたくて選んだものじゃなくて、後者は選びたくて選んだものだからだろうか。

「なんで宗教やろうと思ったの?なんで宗教入ったの?」と聞かれても困る。子どもの頃からそうだったからだとしか言えない。そしたらたぶん、強制されたのか可哀想という目で見られそうだ…とごちゃごちゃ考えて、結局黙ってしまう。

 

親も祖母もキリスト教徒だから自然に教会に通ったが、宗教を強制されていたと感じたことは一度もない。厳しい家庭なら、宗教を強制されてると感じて嫌になる子どももいるだろう。でも僕はそうじゃなかったし、それは宗教の問題ではなく家庭の問題であると思う。

家族で新興宗教に入っている友人がいて、ネットではその新興宗教は勧誘ノルマが厳しいとかルールが厳しくて信者の子どもが可哀想とかよく聞くが、その友人は自身の宗教に厳しさを感じたことはないそうで、満足していると言っていた。だけどその友人も、僕と同様に自分が所属している宗教の話を積極的にはしなかった。

 

僕や友人が宗教の話をしないのは、宗教に恥ずかしさを感じているからではない。宗教に所属していることを嫌なことだと思っているからでもない。なんとなくまわりの雰囲気を見て、「話してはいけない」と思ってしまう。自己防衛のようなものだ。

宗教のルールは宗教それぞれ、家庭それぞれ、同じ宗教に属していても信じる度合いやルールを守る度合いは人それぞれ。僕達はそれを理解しているけれど、無宗教者の人たちにとっては、全部同じに見えるらしい。何が悪くてそう思わせているのかはよくわからないんだけど、親がやってるから子どもの頃から宗教に入っている=可哀想になってしまうのだ。すべての宗教、すべての家庭、すべての信者をひとくくりにして。

強制されてるから可哀想な思いをしている宗教家の子どもはもちろんいる。少なくもないだろうけど、だからといって、全員に当てはめないでほしいとも思っている…。

 

僕がいま教会に行ってないのは、教会が嫌で行きたくなくなったからじゃない。幼少期のトラウマによるところが大きい。そのトラウマは教会から与えられたものではない。

幼少期は、毎週日曜日に教会に通っていた。僕は教会が好きだった。礼拝をするのも聖歌を歌うのも好きだった(今でもたまに聖歌を鼻歌で歌うくらいには好き)。日曜学校という、信者の子どもたちが集まって子ども向けの聖書の物語を読んだり、塗り絵をしたり、劇をしたりする時間があったのだけどそれも好きだった。礼拝のあとにみんなでおかずを持ち寄って机を囲んで大勢で昼食を食べるのも好きだった。牧師さんも好きだった。クリスマスミサも大好きだった。

でも行かなくなったのは、学校の友だちが原因だった。

友だちは嫌いじゃないし遊びたいけど、平日や土曜日にも遊べる。僕は日曜日は教会に行きたかった。それで、日曜日の誘いは断っていた。

たしか小3くらいの頃までは、「教会に行くから日曜日は遊べない」とはっきり言っていた。友だちもそれで納得していたし、教会って何するの?って聞いてきたので、嬉嬉として話した。

高学年くらいになると、教会に行くから日曜日は遊べない、があまり通用しなくなった。みんながみんなそうじゃなかったけど、何人かの友だちは不満そうな顔をするようになった。宗教について、少し知識がついてくる年ごろだった。「日曜日に遊びに行けないなんて可哀想」と言われるようになった。「教会行かないといけないの大変だね」とも言われるようになった。

僕のところの宗派や家庭は、あまり厳しくなく、日曜日に学校行事があったり、友人と土日をかけてお泊まりに行きたいという日は、普通に教会を休んでよかった。「教会を休む」という概念すらあまり無かった。休むとか行かなきゃとかそういうものじゃなくて、行くかどうかは完全に自由だった。そうじゃない所もあるだろうけど今はその話はしない。少なくとも僕は自由だったのに、可哀想だと言われた。

 

可哀想という言葉が逆に僕を縛り、僕はこのころから、ごちゃごちゃ考えるようになっていた。もし、「教会に行くのは強制じゃなくて、行きたいから行ってる」と友だちに言ったら、「日曜日はお前らと遊ぶよりも教会に行くほうが楽しい」と言ってるようなもんじゃないか?そう思われても仕方ないんじゃないか?

友だちと遊ぶのが楽しくないわけじゃないし、比べてどちらが楽しいとか大事かとかじゃなくて、僕は単純に、教会は日曜日にしかやってないから日曜日は教会に行きたいって思ってるだけなのに。

 

そう思っている間に、僕は全く別の件でいじめを受け、「こいつ教会とか行ってんだろ」みたいなことも言われた。いじめられるようになった原因とは関係なかったけど、からかいの種にはなってしまった。その頃にはみんなにも怪しいほうの新興宗教の知識がついており、僕が宗教をやっていることを、いじめグループには「あやしい」「気持ち悪い」と言われるようになった。そう言われるとそうなんじゃないかって気持ちにもなってきて、僕の信仰心は簡単にゆらいだ。

いじめられてるあいだも、別のクラスには一緒に遊ぶ友だちがいて、その友人たちに「日曜日は教会に行くから遊べない」と言うのがますます申し訳なくなっていた。「教会に行くから」ではなく、別の理由をつけて(家族で遠出するからとか、おじいちゃん家に行くからとか)断るようにした。そういう仮病みたいなやつでは毎回断りきれないので、教会のほうを休んで友だちと遊ぶことも多くなった。

親や祖母や教会のひとたちは、「遊びたい盛りだから教会に行かなくなっても仕方ないね」と言っていた。そうじゃない、そうじゃないんだよと思っていたけど、教会に行くことを可哀想と言われたりバカにされるからだとは、教会に通う大人たちには言えなかった。

 

そうこうしながら中学校まではなるべく教会に通っていたけれど、高校にあがって、初めて男性の恋人ができて、日曜日の遊びの誘いを断っていたのも含めて彼とはいろんなゴタゴタがあり、ストーカーやら暴行やらがあって酷いトラウマになってからは、もう無理して日曜日を潰さなくていいんじゃないかと思うようになってしまって、完全に教会には行かなくなった。

自身の宗教の話を他人にすることも無くなっていたし、「話したら絶対ややこしいことになる」ともわかっていた。

 

大人になっても話せない。職場で、堂々と宗教をやっていると明言していた人がいたのだけど、彼はカフェインは勧められても絶対とらないし、日曜日の休日出勤は絶対断るし、宗教でこういう行事があった、こういう信者と出会ったと普通に話していた。それを白い目で見る人もいるわけで、「ああいうふうに、宗教やってる人って…」と影で言われているのを僕も聞かされていた。僕は合わせて笑うしかなかった。

彼は、楽しく宗教をやってるのを楽しいよって話してるだけなのに、ほかの人は勧誘されるんじゃないかと勝手に身構えたりするのだった。しつこい勧誘された経験があるからそうなってしまうんだろう。わかるけど…。しつこい勧誘なんてする宗派が悪いとも思うけど…。

 

そんなこんなで、僕はキリスト教徒ですって言いづらくなっていく。祈りのポーズもとらず、心の中で祈るだけになってしまった。僕はいまのスタイルでも満足しているけど、正直言うと、もし自分の子どもが生まれたら、できたらキリスト教徒に入ってほしいと思っている。

それを配偶者がどう思うのか。親戚がどう思うのか。子どもをキリスト教に入れたことが友だちや会社のひとにバレてしまったらどう思われるのか。そもそも子どもがある程度大きくなった時に、僕と同じ悲しさを感じてしまわないか。そういうことを色々考える。

宗教やってたら、宗教自体のせいじゃないのに悲しい思いをしてしまう。教会か友だちかなんて子どもに選ばせたくないし、そうじゃなくても、もっと大きくなったら宗教差別があることを知って、宗教について沈黙しないといけなくなるのだ。けっこうつらい。

そんなんなら、入信させないほうがいいんじゃないか…とも思うけど、はじめの方でも書いたけど、僕は心の中に神様という拠り所がないということに「大丈夫なの?」と思ってしまうし、怖いとも思う。なんだかんだで無宗教のひともそれでうまくやってんだから大丈夫なんだろうけど、僕からしてみると、そこに神様が置かれないことは心に穴があくようなもんじゃないかというふうに思えてしまう。心に神様がいない状態というものがどういうものなのか、キリスト教徒の僕にはわからないから、自分の子をキリスト教に入れないと納得して決断するまでには、様々な不安がついてきそうだ。

まだ子どももいないのに、Twitterで宗教家族と子どもなんてテーマのマンガを見たので、自分の子ども時代を思い出しながらごちゃごちゃと考えた。

厳しく子どもに宗教を強制する家庭と、普通の宗教とをごっちゃにしない社会にいられたら、僕の宗教生活はしあわせだったんじゃないかと思う。

 

お家にずっといるのは暇だから

暇だから。

だいぶ前から体調を崩していて、家で横になっていることが多いです。昔は、メンタル面がやられて体調を崩すということもありましたが、体調が先に崩れてメンタルが死ぬというパターンもあるんだなと実感しています。暇だと、本当に色々なことを考えるのですが、僕が生まれつき屈折したにんげんだからなのか、マイナスな思考のほうが割合が高い。

 

土曜日から1週間、自宅安静の指示が出て、今日(水曜日)まで本当に1歩も外に出ていないし、娯楽という娯楽も特に楽しんでないのですが、お医者さんに「外に出ちゃダメ」とハッキリ言われたほうが、「体調キツイから休もう…」と自分の判断で会社を休むより断然気持ちがラクで、自宅安静になってからはあまり憂鬱な気持ちになりません。結局は、先週までメンタルが落ち込んでいたのは、単に“体調がキツくて家でじっとしないといけなかったから”ではなく、自己判断で体調が悪いと決めて会社を休むという行為に罪悪感があったからなんだなと思います。実際問題体調が悪いんだからドクターストップがかかるまでもなく罪悪感を抱かずに休めばよかったのに。そういう勝手な罪悪感が鬱に繋がるんだよな、ってわかっちゃいるし実際落ち込んでたけど、何年経っても学習しないものだ。

 

土曜日からは、心穏やかではあるがやっぱり暇なので、色々と考えることはやめていない。

マイナスな想像はしなくなったのですが、かといってポジティブに現在や未来を考えているわけでもなく、ムズカシイお勉強や世間のことを考えているわけでもなく、映画や小説のことを考えているわけでもなく、楽しいことも含めてなんだかややこしいことを考えるのが全部面倒くさくなってしまって、数分後には何考えてたか忘れるような、どうでもいいことばかり考えています。

 

Twitterでパッと目に付いた他人のツイートのことについてチラッと考えて自分の考察を書いてみたり、ネット掲示板で目にした書き込みに適当にレスつけたり、そういうアホな廃人みたいになっている自分自身について、ぼんやりと「退屈だなあ」と思うのが最近の思考回路です。

この「退屈だなあ」という気持ちには、別にツライとかしんどいとかいう意味合いは込められてなく、ただ本当に感情が抜け落ちてしまっているという感覚がするので、「そりゃまずいかな」という危機感をようやっと自宅安静4日目にして抱いたので、何かしら自分の気持ちを書いておこうと思いました。別段、誰も読まなくていいとは思ったんですが、自己顕示欲は強いのでTwitterとリンクさせておきますね。というより僕の記事はたいてい、誰も読まなくていいものです。誰も読まなくていいようなものを書いて露見したくなるのが僕の性癖です。

 

この自宅安静期間中に、もっと有意義なことを……やろうと思えばできるんですけど。

映画レビューアフィブログな。作る作ると言っていつまでも放置しています。サイト編集のログインIDもう忘れてしまったんですけど。

詩作だってできるし、家の中のいらないものを整理してネットフリマで売ることもできるし、カードゲームのデッキ構築の構想だってできる…。でもそういうことしないのは、前述の通り、小難しいことを考えるのが面倒になっているからです。脳みそがスカスカになっている気がする。現状、「そういうことをしなくても生きていける」という状況だからなのか…毎日とりあえず飲食と排便と睡眠だけして、ひたすら「生きる」という行為だけでいいかなと思ってしまう。

 

僕は思春期のころから根暗で、心療内科にかかったこともありますが引きこもりになったことはありません。今の状況も厳密には引きこもりではないと思うんですが、「引きこもりの心理ってこういうものかしら」とちょっとだけ思ってます。この考え方が間違ってて、引きこもりのかたに不快感を与えたら申し訳ないです。

 

せっかくだから、仕事もない自由時間を満喫したい。自宅安静期間、あと3日しかないんですが、どうにか無気力と戦って有意義に過ごしたいです。

 

ファンタジーってなんなんだろうか

最初に言っておくけど僕は文学のお勉強はしたことがないので、これから書く「ファンタジーってこういうものでしょ!」というのは僕の理想であって、学術的な定義でも偉い人が言ったわけでもないのでこの記事は別に誰も読まなくてもいいです。

 

ファンタスティック・ビーストを見て、「ファンタジーは死んだんだな」と思った話。

 

色々ネタバレになるので詳細は省くけれど、ファンタビは前半はめちゃくちゃドファンタジーだった。後半はファンタジーじゃないなあと思ったけど、面白かった。ファンタビが面白くなかったわけじゃない。ファンタジーの時代が終わったんだと思って寂しくなっただけだ。

 

という気持ちをなかなか他人に理解されないような気がしたので、ファンタジーってなんだろうっていうのを書いておきたくなった。

ファンタジーって色々あると思うけど、ゲームとかラノベとかエロ漫画みたいなアレは全く別ジャンルだから忘れてほしい…。ここで話すファンタジーは、海外児童文学のアレだ。

 

僕が思う、ファンタジーとして完成されすぎている作品といえば、果てしない物語、指輪物語ナルニア国物語とかあのへんになる。もう「古典」と言われてしまうものだ。わりかし最近のでいうと、イーザウのネシャンサーガとか、忘れられた記憶の博物館とか、レイチェルシリーズとか、バーティミアスとかそのへんで、

日本の作品でいうと、守り人シリーズとか、シェーラひめのぼうけんとか、ブレイブストーリーとか、あのへん。龍の住む家も良かった。あれも日本の作品だったかな。

 

ファンタジーにはふたつのパターンがあると思う。

元々「我々の世界」にいた主人公が異世界に迷い込むタイプ(最近ラノベ界隈で流行りらしい)と、

完全に異世界だけで世界が完結してるタイプ。

どっちも数としては半々かというとそうではなく、ファンタジー作品には後者の方が圧倒的に多い。

 

僕が「ファンタジーってこういうものでないとだめだ」と思っている基準のひとつに、「我々の世界が介入しない」というのがある。

「我々の世界」とは違う世界を描いているからこそのファンタジーであり、「我々の世界」がチラつくことはファンタジー作品において邪魔すぎる。異世界に迷い込む型の主人公は異世界への適応力が高くないといけないし、「我々の世界」と行き来ができるなんて言われるともうよっぽど上手くない限りは萎えるしかない。だから異世界に迷い込む型のファンタジーは難しいんであって、簡単にわかりやすいファンタジーらしいファンタジーを作ろうと思ったら、異世界だけで完結してる型が書きやすいんだと思う。

 

その点でいうと、「主人公がファンタジー世界に迷い込み、また「我々の世界」に帰ってくる作品」代表の、果てしない物語やナルニア国物語は本当に優秀だと思う。

主人公はたいてい、「我々の世界」で悩みを持っていたり、不満を持っていたり、成長する余地があったりする。それでそれをファンタジー世界に持っていくが、「我々の世界」とは直接的には関係しないところで主人公は成長を遂げ、ファンタジー世界を救う英雄になるんだけども、またファンタジー世界から「我々の世界」に帰ったときには、主人公は「異世界の英雄」としてではなく、「我々の世界」基準での一般的な子どもとして、大人から見れば小さな成長をあらわにしているのである。

これがファンタジー作品には大切で、「我々の世界」と「ファンタジー世界」には、どうしても隔たりがなければならない。主人公は自分が元いた世界と異世界とを行ったり来たりできたとしても、ふたつの世界をつなぐような人間にはなれない(世界をつなぐって何?神様か?そういうことができる最強すぎる主人公は萎える)。「我々の世界」と「ファンタジー世界」は行き来できうる関係だとしても、お互いが干渉できる関係であってはいけない。そんなことができてしまったらもはや、「ファンタジー」ではないのだ。わかってほしい。読者の我々からしてみれば、行けそうでもどう頑張っても行けない憧れの世界でなければならないんだ。わかってほしい。たとえ、「本の中における我々の世界」だろうがなんだろうが我々の世界は我々の世界であり、いかなる場合においても「我々の世界」はファンタジー世界と交わってはいけないんだ。

 

だから、ハリーポッターシリーズは、僕個人としては優秀なファンタジー作品と思ってるんだけど設定自体がかなりギリギリのラインを通っていた。

人間世界にまぎれて暮らす魔法使い。人間世界はもちろん「我々の世界」だ。交わってしまってる。だけど、あの作品において非魔法族には魔法の存在が隠されている。一部知っているひとはいるが、そのひとたちもほかの非魔法族に内緒にしてるし、その他の人にバレたら忘却される。そういう約束事のうえで、ファンタジー世界と「我々の世界」がかろうじて線引きされるという、ギリギリで綿密な「設定」がとても優秀だった。この作品における「ファンタジー世界」は、「我々の世界」の文字通りすぐ隣にあるうえに、しっかりとした隔たりもある。この作品が発表されたことで、「僕もいつかホグワーツに入学(編入)できるかも」と胸を躍らせた子どもが全世界にたくさん湧いて出てきただろう。でもできない、期待してるけどちょっとわかってる。そういう憧れのままというのが心地よかったよな。な?そういうのがファンタジー作品のお約束であってほしかった。

 

「魔法が使えれば」「魔物がいれば」、イコールファンタジーになるというわけでは決してない。いやカテゴリー的にはファンタジーかもしれないけど、生粋なファンタジーではない。ファンタジーの亜種と言ってもいいくらいだ。

ふつうに魔法が使えるひともいると認知されていてふつうに魔物もいる「我々の世界」が描かれているとすれば、それはもう、その世界は「我々の世界」ではない。例えばイギリスという具体的地名が出ていたとしても、読者は「それは自分が知っているイギリスとは違う」と無自覚的にでも認識できてしまうし、そう思われた時点で、この作品の世界は、「ファンタジー世界と我々の世界をきれいに分断できていないが、完璧なファンタジー世界を描いているわけでもない」という中途半端な世界になってしまう。僕としてはまあ萎える。優秀なファンタジー作品とは思えない。何が描きたいんだ?って思う。だから「バケモノの子」はダメだったんだよ(突然の批判)

また例えば今月末に公開される予定の、「ドクター・ストレンジ」。あれは魔法で悪者と戦うが、ファンタジーか?と問われれば、大多数が「ヒーロー映画」「アクション映画」と答えると思う。何故なら描いている世界と舞台は「我々の世界」でしかないからであり、作品はファンタジー世界を特に意識していないからだ。だからあれは自他ともに「ファンタジーではない」と言い切れる作品だと思う。「マイティ・ソー」あたりなら、ファンタジーに分類したがるひともいるかもね。

 

アメコミの話は置いといて

昨今はゴリゴリのファンタジーというのがどうやら売れないらしい。「我々の世界」に関係ある話じゃないと面白いと思ってもらえない風潮がある。

だからファンタビは、「魔法生物のおはなし」じゃなくて「ノーマジ対魔法使いの中で発生した、ヒトと社会の闇のおはなし」になってしまったし、戦いの場はファンタジー世界ではなくまちなかや地下鉄になってしまったんだと思う。ロードオブザリングとかナルニア国物語みたいに、不思議な生き物たちがぞろぞろと出てきて、不思議な生き物たちがメインになる話ではない。するともうこれはファンタジーなのか?いや違うだろ、としか言いようがない。ファンタビは、魔法こそは出てくるが「我々の世界」の差別と抑圧の構造のおはなしだ…。魔法はアクセントであり、魔法生物はオマケだ。

 

しかしそれはファンタビが作品として出来損ないっていうわけじゃない…。面白かった。だけどもうこれは「僕が思ってたファンタジー」ではないし、今後こういう「ファンタジーっぽい」作品が出てきても、ファンタジーではなく結局「っぽい」ものでしかないんだろうなと思う。ふたたび、王道ファンタジーが爆発的に売れるようになるまでは、たぶんずっとそうだ。それを寂しいと思うだけの話でした。

 

余談だけど、「君の名は。」はファンタジーらしいよ。ウケるすぎる。どっちかというとSFに近いと思うんだけど(どっちかというと)、ファンタジーではないだろ……。でも昨今のラノベ界隈の様子を見てたら、まあ、「ファンタジー」と呼んでしまうのかなあと思わないでもない…。

 

「性別」と「好み」と「押し付け」について

僕です。

僕のTwitterのフォロワーさんのお話で、ちょっと思ったことがあったので、僕が考えたことだけど割と当たり前でみんな普通に思っているであろうことを書こうと思います。

考えるきっかけとなったフォロワーさんのお話の詳細はまあ彼女のものであるので勝手にはお話できませんが、要するに、「女性は女性らしいものを好きであるべきだ」と男性から言われたという旨の話でした。

 

もちろんそれは、未だにそんなことを言う僕より若い若者がいるのかもう2017年明けたぞと驚くくらいには偏見に満ち溢れているわけですが、それとは別件で、真逆なようで同様のセリフである、「お前いつもジェンダーがどうのこうの言ってるくせに男or女っぽいもの好きじゃん、矛盾してない?」も腹が立つものです。

 

女の子は必ずピンクや恋愛モノが好きでなければいけない、男の子は必ず青やサッカーが好きでなければいけない、というような「必ず」は存在しないのですが、かといって、ふだんジェンダーが~と言っているひとがいわゆる「男っぽい(女っぽい)」ものを好きになったら駄目だとも決まってもいないのです。当たり前だけど…。

 

そもそも、ジェンダー論とはなにか?ということをわかっていないひとは、ジェンダー論をとなえる一部女性やセクシャルマイノリティのひとたちが何に怒っているのかを根本的に理解していません。

だから、女性が「女らしさを押し付けるな」と言ったり、女性になりたい男性が「男を強制しないでほしい」と言ったとき、ジェンダーに不自由していないひとがそれを聞いたら、仮にその言葉自体は理解できたとしても、「あれ?でもそう言ってるけど〇〇ちゃん、お化粧バッチリしてるよね?女らしく見られたいってことでしょ」だとか、「だけど〇〇くん特撮番組好きじゃん、ちゃんと(←謎)男の子らしいよ」と言われるわけです。

 

このタイトルでこの記事を読もうかなと思うようなひとはたぶん100%わかってると思うけど、僕たちが困っているのは、外部から「らしさ」や「こうするべき」を押し付けられることの窮屈さです。個人の内々の趣味や好みの話はまったく関係ないですよね。自分個人の趣味が、世間が枠組みに入れた「男らしさ/女らしさ」と一致してたって困らないわけです、だって趣味だもの…好きなんだもの困らないよ…。

でも好きでもないものについては、「あなたは男だから/女だから、これ好きだよね?」という理由で押し付けられても困るという話なのです。だって好きじゃないんだもの…。男だから好きでしょってなに…僕が好きなものください…ってなるじゃんな。

 

そして僕は、どうしてこういう「押し付け」……というか、押し付けてる側はだってそうでしょっていう悪気のなさから言ってるわけだから「勘違い」になるんだけど、とりあえずどうしてこういうすれ違いが起きてしまうのかを会社の帰宅途中に考えた。

 

僕たちの社会には、いつからかはわからないけれど、「男の子の文化」「女の子の文化」というものがすでに出来上がっています。時代によって内容の変化はあるものの、その時代その時代でちゃんとその文化はきれいに分かれています。将来的にはもしかしたら性差による文化の区分は無くなったりするかもしれないけど、とりあえず今はまだ、「男の子の文化」「女の子の文化」に分かれています。性差を否定するひとがどんなにがんばって活動してても残念ながら二分されています。

その2つの文化の違いは、日朝のアニメや特撮のあいまに流れるCMにも、トイザらスのコーナー別のカラー(物理的な意味でも抽象的な意味でも)にもハッキリとあらわれており、幼少期から僕たちの「好み」に大きな影響を与えます。ヒーロー番組の後に流れるオモチャのCMやヒーローグッズのパッケージには男の子が、プリキュアの変身アイテムやお人形の箱には女の子が映っています。そして僕たちは、幼少期にはまあたいていは自分の性認識が体の性と一致しがち(そうじゃない子もいます)なので、「僕は男の子だから仮面ライダーが好きだ」「私は女の子だからプリキュアが好きだ」という暗示にかかりやすいのかと思います。親(特に母親)の影響も強く出そうですね。親が、「〇〇ちゃんには(女の子だから)プリキュアの変身セットを買ってあげるね」と言って「女の子の文化」圏のものを与え続けていれば、その子は一般的にいうところの「女の子らしいものが〝ちゃんと〟好きな女の子」に成長するわけです。(時に、そういうのを「同性の親」が過剰に与え続けていると、その子どもは物心がついたころに強い反発心を持って真逆の趣味に走りたくなるような傾向があるんじゃないかと僕は思ってるんだけどそれは僕の想像なので置いといて)僕の話をしますね。僕は僕の話が大好きなので。

 

僕は幼少期、オーレンジャーセーラームーンも大好きでした。オーレンジャーは絶対レッドをやりたくて保育園では毎日「今日は誰がレッドをやるか戦争」に参戦していたし、セーラームーンはグッズをほとんど全部買ってもらいました。僕の家庭の場合、ちょっと母親がおかしかったんじゃないかと思います。僕が小学校4年生くらいの時に知ることになるんだが、僕の母は、宝塚と「薔薇」と「百合」が好きなひとでした。たぶん、時代的にそういうのが流行ってた世代だったんだと思います。母親が少女時代に流行った少女漫画ではちょうど、「おてんばな女の子」や「破天荒な女の子」が主人公になりがちで、女だから、しおらしくおしとやかに、というのがちょっとダサいっていう時期だったかと。

だからなのか、ぼくは母親に、ぼくの性別に関して「らしさ」を押し付けられたことがあまりありません。(全くゼロではないです)

 

たぶん僕の母と同世代の親でそういうシュミだったひとはたくさんいて、その子どもたちがだいたい僕と同世代なわけなんですけど、僕みたいに特に性差を親からは押し付けられなかったなーという脳天気な子どもは多いんじゃないかと思います。そしてそういうシュミのマンガを読まなかった親御さんの子どもたちも、性が多様化していく子どもたちの中にいながら自分の性や親から押し付けられる性差について自発的に疑問を持っていったから今の20代~30代を中心にジェンダーの話題が頻繁に浮上しているのではとか妄想したり。それは本題じゃないから置いといて。

 

話はかなり前に戻るんですけど、そんなこんなでも「男の子の文化」「女の子の文化」はあって、親に性差を押し付けられなかったような僕でもその文化には充てられました。みんな充てられると思う。親が、じゃなくても、もっと考え方が古い祖父母だったり、親戚だったり、「〇〇ちゃんは女の子らしくて可愛いね~」なんて言う近所のオバサンだったり、学校の先生だったり、ランドセルやお名前シールの色だったり、学校で友だち付き合いするうえでの共通テーマとしてあがったりで、ありとあらゆるところで「男の子の文化」「女の子の文化」への強制参加イベントがあります。

その中で、違和感を特に覚えずそれが「男(または女)らしい」と信じて成長していく者もいれば、押し付けられてるようで窮屈だなと思いながら成長していく者もいれば、「そもそも自分が思っている心の性と周りが認識している性が全然違うんですけど」と悩む者もいる。

子どもたちはいろんなタイプに分かれていくわけだけど、どんなタイプの子だって必ず、避けられなかった「男の子の文化」「女の子の文化」の道は通ってきています。だからその文化の中から、自分が好きなものを見つけたって不自然じゃない。

心は男の子(生物学上の女の子)が、通ってきた「女の子の文化」の中からセーラームーンを選びとったとしても、「お前、心は男なんじゃないのかよ!」「心が男なんてホントは嘘なんじゃないの?」とバカにされるいわれはないんじゃないですか?

そういう子が「自分は男になりたいから、女の子っぽいものは捨てなきゃいけない…」といって好きなものを心の奥に仕舞うとき、「体も心も男の子」が女の子っぽい趣味を捨てなきゃといって捨てるのと同じ現象が起きています。

 

どんな性自認のひとだって、自分が好きなものを我慢する必要はないんじゃないかな…それは「自分の好み」であって、もう、「男の子の文化」「女の子の文化」という大枠の枠組みから選び抜き取ったものだよな…

 

だから、「女らしさを押し付けるな」という女性がバッチリお化粧してたって矛盾してないし、「男を強制しないで」という男性がガンプラ組んで遊んでたって矛盾していないし、その一方で、赤の他人が自分の好みじゃないのに「お前は女だから恋愛映画見ろよ」と決めつけるのは大きなお世話でしかないという結論になるんだよ。

 

なんかごちゃごちゃと書いてしまったけど、本当はこんなごちゃごちゃと書くまでもなくシンプルで当たり前な「ただの好み」の話なのに、性差が絡むとどうしてこうもややこしくなってしまうのか。ややこしく「ただの好み」にちゃちゃを入れてくるひとがいるのか。もう2017年になって5日も経ったぞ。いい加減ジェンダーフリーになってほしい。とかそういうことを思っています。昨日しぶんぎ座流星群見た?ぼくの地元曇ってたから諦めたよ。

 

 

暇だから本の話をする

僕は小説があまり好きじゃない。

それにはいろいろ複雑な意味が込められているけど、話せば長くなるので、他人に「好きな本は?」と聞かれた時は、事前情報としてひと言で「小説はあまり好きじゃなくて、」と冒頭に添える。

前職も今の仕事も、大学の専攻も学生時代のアルバイトも本に関わるものだったので、どこかしこで必ず、「好きな本は?」という質問を受けるのだけど、このとき質問者が期待している「本」というのは、小説を指している場合がおおよそ99.99%くらいである。だから僕はこの質問を受けたら必ず最初に「小説は好きじゃないんですが、」と丁寧に前置きしてから、小説ではない本を答える。

 

もっと言えば、このとき質問者が期待している「本=小説」というのは、現代小説家の小説であることが主だから、現代小説が苦手な僕は「小説は好きじゃない」と言っている。質問者のいう「本」や「小説」の定義があまりにも狭すぎるんだ。

 

読書家でも、本の好き嫌いというものはあると思う。映画ファンでも嫌いなジャンルの映画はあるだろうし、漫画好きでも「この手のマンガは読まない」というものがあると思う。映画やマンガはジャンルが広大だからそういう趣味の偏りがあるということは理解されていて、たいてい、「好きな映画」「好きなマンガ」の話をする時に「好きなジャンル」という大枠で語っても充分に許される雰囲気がある。

だけど読書家界隈における「好きなジャンル」というのはあまりにも狭くって、本の話をしているはずなのに、「小説の中」という限定された枠からの「好きなジャンル」「好きなタイトル」を話すことしか許されていない感じがする。

 

僕は昭和後期以降の小説家の書く小説があまり好きじゃない。どう嫌いなのかというのはいろいろ言えるけど、単純にいえばまあただの好みである。ライトノベルは大論外で全く好みじゃない。どれも読まないわけじゃなくて、一応は読む(ライトノベルの中にはそもそも読もうとも思わないものも多いから、ほとんど読んでないけど)

現代小説も一応は読むので、そういう話ができないわけじゃないけれど、苦手だし面白くもないし文句しか出ないのでできれば現代小説の話はしたくない。

 

小説は小説でも、明治・大正・昭和初期の文学は好きだから、そういう話をしてもいいんならするけど、「好きな本は?」と聞かれた時に、「宮沢賢治夏目漱石が好きです」と答えたら苦笑いしながら「真面目な本が好きなんだね」と言われるのは本当につらい。

近代文学が好きだと言った時に「真面目」と評価されるのは好きじゃない。じゃあ現代小説は「真面目」ではないのか?失礼だよな???

 

もっと言えば、近代文学でも、漱石や康成よりも、ぼくは、賢治や中也や朔太郎の詩のほうが好きなわけだ。完全に好みの問題でそうなんだけど、小説ではないので話題に出しにくい。詩はさらに「真面目」というイメージがついてしまう。質問してきたひとも、僕に「近代作家の詩集が好きです」と言われたら、会話を続けられなくて困るらしい。そう言った後でもまともに会話が続いたのは、文学系の学科であった大学時代だけだ。

 

また僕の場合、実は、近代詩の次に近代小説が好きかといえばそうでもない。近代詩の次に好きなのは日本古典文学だ。「詩以外ならなんの本が好き?」とめげずに質問者が会話を続けてくれた時に、「古典文学が好きです」と答えたらまた質問者は困ってしまって、「真面目だね」と言うのだ。

別に僕も困らせてやろうとか、真面目・秀才アピールをしてやろうとか、ひととは違ったものが好きですアピールだとか、そういうつもりで言ってるんじゃないんだよ。事実として好みの話をしているんだよ…わかって…と悲しい気持ちになって心が死ぬ。

 

順番的にいえば、近代詩→古典文学の次に好きなのは、理科系の本だ。図書館でいうと、4類の棚に入ってる本が好きだ。宇宙の本とか鉱物の本とか、動物の本とか虫の本とかそういった類いの。

この手の本を挙げて、ようやく、本の話題における「会話」みたいなものがかろうじて成立する。

「へ~、図鑑とかが好きなんだね!俺も図書館の図鑑見るの好きだったな~。文字が少ないから(笑)」とかそういう、返事らしい返事がかえってくるし、この手の本は意外と「真面目だね」と言われないし、苦笑いもされないし、相手もちんぷんかんぷんな世界ではないらしい。「そういうひともいるね」とようやく認めてもらえる。

でもそういう風にうまく会話が成立しても、「図書館で働いてたのに/本屋で働いてたのに/本を売る仕事がしたいのに、好きな本が小説じゃないって珍しいね」と言われてしまうので、いちいちそう言われるのがイライラするので、最近はもっぱら、「好きな本は?」と聞かれたら前もって「小説は好きじゃないんですが、」と言うのである。

 

「小説は好きじゃないんですが、図鑑系の本は好きでよく読みます」が僕の最適解だ。100%正確な回答ではないけど。「本の話題」における「本」の定義がいかに狭いかがよくわかるだろ…泣きたい…

 

しかしこれで納得しないのが、中学生の「図書館の常連さん」と、頭がカタいタイプの大人の読書家だったりする。要するに、「小説」だけが好きな熱心な読書家タイプ。

大人はあんまり声に出して批判はしないが、中学生のカギ括弧付きの「読書家」は、僕のこの回答をめちゃくちゃ馬鹿にする。彼らは、「本」というものは、文字がたくさん書かれていれば書かれているほどありがたいものだと思っているので、文字が少ない詩や図鑑や絵本が好きではない。そして、そういったものを好んで読むひとのことを「活字が読めない怠け者」だと思っていて、それを態度に出したり言葉にしたりする。

 

僕が図鑑が好きだと言ったら、当時働いていた中学校内で読書冊数が1位だった女の子に、「なんでそんなつまらない本を読むの?」と聞かれた。相手は中学生だから、もちろん腹は立たないし、自分が最善だと信じている世界を愛するあまりの無邪気な質問だと可愛くも思うが、当時は僕も「図書館の先生」だったので、そういう偏った考え方はやめたほうがいいと教えなければならなかった。

「〇〇さんは、4類の本を読んだことがあるから、つまらないと言えるんだよね?」と聞くと、「読んだことない」と言う。まあ知ってた。あの棚のしか読んだことがないと、9類の棚を指す。文学・小説のコーナーだ。

僕は当時、よく本を借りに来る子たちの本の好みを把握していたので、その子がよく読む本のことも知っていた。その子は今どきの中学生にしては珍しく海外ファンタジーが好きだった。

海外ファンタジーには、ヨーロッパ神話がモチーフになっているものが多いので、1類(宗教・神話・哲学等のグループ)の「神様図鑑」みたいな本や、4類(自然科学のグループ)の星座の由来本等が勧めやすい。実際、それがわかってないと理解が苦しくなる海外児童文学は死ぬほどある。外国の児童は当たり前のようにヨーロッパ神話を知ってるから小説内に説明がないんだ。だからその子に1類や4類の中の神話系の本を勧めたら、一時期ハマってくれた。それでもその棚の別の本を読もうとしなかったのは僕の力不足ではある。

 

厄介なのは、日本の現代小説(児童書ではなく、大人も読むようなもの)が好きな生徒だった。紐付けして他のジャンルの本を勧めにくい。

昨今の日本の現代小説は、恋愛系か推理系、それから「現代日本人が抱えている内面的な葛藤」を描いたものが流行る。小説において、「ひとが抱えている内面的な葛藤」を描くのは文豪が闊歩していた大昔からそうなんだけど、なんか言葉にしにくいけどその時代と今とではその葛藤の内容が違うというのもあるがそれを描くための葛藤へのアプローチの仕方も違う。カタルシスが下手くそなんだよな……鬱屈した感情を鬱屈した感情のままに最後まで鬱屈としたままで終わるから物語内に展開がないよな…と思ってるんだけどまあそれは置いといて、

最も流行ってるのは恋愛系と推理系なわけです。推理系でもガチ系の推理ものはあまり流行らない。探偵と助手は男女で、ちょっとぶっ飛んだキャラクターで、恋愛の雰囲気を醸し出していたほうが流行りやすい。そういう本ばっかりが好きで、そういう本以外には読みません!というひとには、ほかのジャンルの本を勧めにくいし、いや別に無理して好きになる必要はないんだけど、世の中にある「本」というものは全てそういうものだと思い込んでしまっていると、僕みたいな人間と本の話題で会話をする時にお互い困るわけです。でもそういうひとはかなり頭がかたいので、僕のほうが話を合わせたりします。そうなってしまうと、まあ、僕にとって「本の話題」ってつまらないんですよね。

 

たくさん寄り道したけどつまり何が言いたかったかというと、日本人における「本」の定義があまりにも狭すぎるせいで、かなりの気を遣わないといけないから僕は本の話題が全然好きじゃないし、本の話題好きじゃないからやめようっていう態度をとると、「このひと本に関する仕事しかしたことないくせに本が好きじゃないんだな、変なひとだな」と思われてしまって腹立たしいという話です。

 

実際、僕みたいに、「現代小説が好みじゃない」という子どもたちはたくさんいて、でもその子たち自身「本っていうものは現代小説しかない(からつまらない)」と勘違いしているわけで、そういう子たちは本当は、スポーツの本とか、戦国武将の読みものとか、図鑑とか、百科事典とか、お金や物流の話とか、車の本とか、旅行本とか、ペットや植物の育てかたの本とか、料理のレシピ本とか、外国の綺麗な風景が載っている写真集とか、イラストの描き方の本とか、人体の不思議の本とか、宇宙の謎の本とか、なぞなぞの本とか、絵本とか、そういった挙げればキリがないような「小説以外」の本ならいくらでも読めるよってなるかもしれないのに、そういった本が見えなくされているから、読書嫌いな子が出てきてしまうんだよね。

中学校の図書館で働いていて、子どもの読書活動において1番害悪だなと思ったのは、朝の会の前の読書時間や、授業で図書館を使う際に読書をする時間には、「小説」以外の本を読むことが禁止されていたことだ。学習まんがや絵本や、それどころか、写真ばっかりだからと図鑑すらも禁止だった。僕は結構、その制度について先生たちに文句をつけたが、僕の言うことにいちばん反対してたのは国語の先生だったし、図書館主任(司書とは別のひとです)だった。同じ国語教員免許を持っている身として、恥ずかしくて仕方がなかった。国語教育失敗しすぎだろ、なぁ。正規職員じゃないから希望も全然通らなかったし、現時点での学校教育や読書活動に絶望したから辞めたんですけど。まあそれは置いといて。

子どもを読書嫌いにしているのはどう考えても「小説至上主義」の大人の読書家たちなので、どうにかして考え方が改まっていかないかなあと思う次第であります。

お腹がすいたので終わります。

 

ひとりごとを呟いている時の心理状態

僕はいつもあたまのなかにどうでもいい言葉が渦巻いていて、それはたいてい、意味の無い単語です。CMの言葉や童謡またはロックミュージックの歌詞や、好きな動物、好きなことに関する単語などです。何も考えていないときやリラックスしているときに、その意味の無い単語郡が口から出てきます。

 

仕事中や、友だちといる時はあまりそういう言葉が出ないように我慢していたり、もしくはそういう言葉が浮かばないくらい別のことを考えたりしています。

 

だけども、ひとりでいるときはいつも何かしら喋ってたり単語にもなっていない叫び声をあげているし、ここ数年は恋人の前でもそうなので「うるさいから黙って」とよく言われます。

 

ひとりごとを我慢するのは大変な苦痛を伴うストレスなのであまり我慢したくないんですが、うるさいっちゃうるさいし、ある種の恥ずかしさもあります。

 

「おとな」になれば、収まるかと思いきや、実家を出て以降年々ひどくなるばかりです。これはなんなんだろうか。やめたい。

 

そのために口を塞ぐんだと思う。お腹いっぱいです。